主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

その憐みは代々に限りなく主を畏れる者に及びます  ルカ1章50節。

『その憐みは代々に限りなく主を畏れる者に及びます』ルカ1章50節

46節から56節はマリアの賛歌と言われています。

これはマリアを賛美するのではなく、マリアに目を留めて下さった主の偉大さを讃えている御言葉です。

『憐み』という御言葉が2回記されています。50節、54節。

『憐み』とは、神の恵みが目に見える具体的な形として現わされることで、

神の最大の憐みの行為は、神が御子を世に遣わして下さったことです。

神様の愛が独りのみどりごの姿をとって現わされたのです。

御子の言葉と行いを通して、神様はご自身が愛の御方であることを私たちに教え下さいました。それゆえ御子を見れば私たちは父なる神様がどんな御方であるかを知ることができます。

その憐みの極みは、御子を私たちの罪の贖いの供え物として、十字架につけることでした。

御子が十字架にかかり死によみがえられたことにより、罪の贖いの御業(憐み)が成就しました。その憐みは代々限りなく続くのです。

『憐みは代々限りなく、主を畏れる者に及ぶ』50節。

マリアの胎に宿られた御子は、今の時代も主を畏れる者と共にいて下さいます。

共に御子のご降誕を祝いましょう。

2019.12.8 茅ヶ崎集会 建徳抜粋

おめでとう。恵まれた方。主があなたとともにおられます。ルカ1章28節

ルカ1章26節から 受胎告知

 

1:医者であるルカは、まず最初に理性では理解できない自然の法則を超える超越的なあり方によって、イエス様が人の胎の中に宿られたという事実を記している。アメイジング、想像をはるかに超えた驚くべきことをまじめに記している。神が奇跡によって、歴史の中に介入されたことにより、救い主の誕生の物語が始まったことを記録している。

処女が身ごもることは一般の人、偉人、英雄とは全く異なる誕生であった。

また神話のように、出生があいまいでもなく、歴史の中に刻まれた史実であった。

生まれた所、産んだ人(父、母)、産んだ時期が正確に記されている。

エスとはだれでしょうか。人の子として生まれた方。

罪の性質を引き継ぐことなく生まれた方。

ダビデの子孫として生まれた方。

2:神の計画は、神の御前に整えられた人々とともに働く。

神の計画は、主のために備えている人々に神が目を留め、それらの人々を通して実現していく。

神のために備えられた聖い器はどこにいるのでしょうか。

神様は、ナザレという名も知れない小さな寒村に主の御心にかなう一人の乙女に目を留められた。『あなたのおことばどおりこの身になりますように。』というマリヤの信仰の応答によって、神の計画は実現に至った。

『ですから、だれでも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもん、あらゆるよいわざに間に合うものとなるのです。』第二テモテ2章20から26節

 

神様は全世界をあまねく見渡し、神の御心にかなう遜った魂の持ち主を常に探しておられます。

『主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです』第二歴代誌16章9節

 

3:おめでとう、恵まれた方。28節

この恵まれたという言葉は、好意を向けるという意味があります。

神様が多くの乙女の中で特別にマリアという乙女に好意のまなざしを特別に向けられたという嬉しいお知らせを伝えに御使いがやってきたのです。

おめでとうマリアさん、神様があなたに特別に目を留めて下さいましたよ!と喜びの知らせを伝えました。

マリアが戸惑っていると、御使いはまず、『こわがることはない』と伝えました。

マリアの身に何が起こるかはまだ知らせれていません。将来に何がおこるか知らずとも、あなたは恐れなくてもいいとまず御使いはマリアを支えて下さったのです。

マリアは身ごもると言われた時、いくつかの不安が心によぎったことでしょう。

・ヨセフからの疑い、離別

・人々からの誹謗、中傷、命の危険

・生物学的な理解不能。(理性によっては受け入れることのできない事実)

上記の3点について、マリヤは自分の不安や疑問、理解できない事実をそのままに神の御心と信じて受け入れました。

聖霊によって神の計画は進められます。人にできる事は、「神にできないことは何一つない」と信じる純粋さ、素直さ。

私は、主のはしためです。(江戸時代まで使われた。今は死語になっている。端の女、召使いの女)

遜り、主の言われることは何でもしますという心構え、常に自分の思いや願いではなく、神の御思い、神の願いがこの身に起こることを慕い求めている心の姿勢があること。

 

『神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた心、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません』詩篇51編17節

マリアのようなへりくだった心を私たちも学びたいと思います。

 

適用

神は心の砕かれた魂を神の計画の遂行のために探されている。

神の計画は聖霊によって進められる。

神は人に強制せず、人の信仰を待つ。

人が素直に神の計画に同意するときに、

神の計画はその人を通して現れてくる。

2019.11.24 茅ヶ崎集会建徳要旨

すでに教えを受けられた事がらが正確な事実であることを、よくわかっていただきたいと思います。ルカ1章4節

信仰の成長のために聖書を学ぶことの大切さ。 

1:ルカについて。

ルカは、ピリピの出身といわれ、ピリピの教会の初期の牧師としての働きをしたと言われています。また、ルカはパウロの同労者として、パウロがローマで投獄され、処刑される前までの期間、ともにローマで過ごしたと思われます。

 パウロは文才に恵まれていましたが、パウロの中心的な働きは、異邦人に福音を宣べ伝え、異邦人の教会を設立していくことにありました。パウロの同労者として主の弟子として歩んだルカは、パウロのように大胆な語り部ではなかったようです。ルカに与えられた召命と賜物は、文書伝道であったと言えるのではないかと思います。ルカは12使徒ではありませんでしたが、ルカの後世に残した最大の功績はこのルカによる福音書使徒行伝を書き残したことでした。文書伝道の特質は、著者が召された後も、残された文章を通して伝道が継続されるところにあります。ルカの著した福音書使徒行伝によって、後世の教会はどれだけ恵まれ教えられてきたことでしょうか。

3節『私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから』

ルカは、すでに多くの人々がイエス様の生涯について書き記していることを知っていましたが、ルカは自分自身でも、すべてのことを綿密に調べ、さらに、それらのことを綿密に順序だてて書き上げようという願いを持ちました。これは、神様が聖霊によってルカに与えた願いであって、神の御旨に良しとするところでありました。ルカは、ピリピ教会の牧会に与るとともに、文書伝道に勤しみました。

 

ルカが福音書を書き記したのは、テオピロというローマの高官のためでありました。ルカが医者として知り合ったのか、親しい間柄であったことでしょう。ルカは、このテオピロに対して、イエス様の生涯を初めから終わりまで伝えることの必要性を感じました。

当時は、イエス様について、様々なうわさも流れ、どの話が正しいのか断片的な知識だけでは、イエス様の真意が伝わりにくい状況も現れていたと思われます。

エス様を信じてまもないテオピロが、間違った教えに振り回されず、まっすぐ主の弟子となることができるよう、ルカは配慮したことでしょう。ルカは医者でしたから、肉体のケアだけでなく、魂のケアも大切であることに気が付いていたのではないかと思います。

ここから私たちが学ぶことは、

信仰の成長には、御言葉の学びが必要であるということです。

断片的な知識だでなく、イエス様の生涯とその教えを順序だてて学ぶことです。信仰に入った次に必要なことは聖書の学びです。

エス様の全体像を学んでいくことが大切なことです。

 

信仰の成長のカギは聖書の学びにあります。

信仰の成長には、ただ祈ることではなく、聖書の御言葉によって魂が養われる必要があります。

私たちの信仰の先輩であるジョージ・ミューラーはこのように言っていました『私は回心してから3年間、この神のことばをないがしろにしていた。しかし、聖書を熱心に探究し始めてからというものは、すばらしい祝福を与えられている』

また、アメリカの大衆伝道者であったムーディーは、『私は信仰を求めて祈った。そして、いつの日か信仰が稲妻のように落ちて来て、私を打つであろうと、考えた。しかし、信仰は来そうになかった。ある日私は、ローマ人への手紙10章に次ぎのことばを見出した。(そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。)

わたしは、聖書を閉じ、信仰を求めて祈った。その時から、私は聖書を開き、学び始めた。そして信仰は日ごとに成長し続けている』ムーディーは神学校は出ていませんが、聖書を良く学び、伝道によって多くの魂を刈り入れる働きを為すことが許されたのでした。

 

植物の成長に必要な要素は、光と水と土(栄養)です。

これを信仰の成長に例えると、光・・神との交わり、すなわち礼拝。水・・御霊、すなわち祈り。そして土・・すなわち御言葉。です。

この三要素がそろって、植物も信仰も成長していくのです。土がなくても、わずかに植物は成長できますが、土がなければ丈夫に立派には成長せず、実を結ぶ力もありません。

 

使徒17章11節には、模範となる聖書の学びを続けていた弟子たちの姿が記されています。

『ここのユダヤ人たちは、テサロニケのユダヤ人よりも素直で、非常に熱心に御言葉を受け入れ、そのとおりかどうか、毎日、聖書を調べていた』(新共同訳)

素直であること。聖書の言葉を疑わず、そのまま信じる事。

熱心であること。御言葉を慕い求める心。

毎日、     気分が良くても悪くても御言葉に聞く。

調べていた。  知りたいと願う探究心

この結果、多くの人がイエス様を信じ、信仰に入りました。

 

教会における聖書の学び会は地味な活動に見えるかもしれませんが、

私たちの信仰、牽いては教会を成長させる底力となります。

教会に必要な集会は、礼拝会、学び会、祈り会、伝道会です。最低、この四つが有機的に機能しはじめると教会は成長し始めます。

 

私たちも、弟子たちを見習って、信仰の成長のために、聖書から順序立ててイエス様の全体像を学び続けていきたいと思います。

 

2019.11.10 茅ヶ崎集会

 

 

主よ、あなたはどなたですか。使徒22章8節

わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることを。イザヤ45章3節

わたしが主である。ほかにいない。わたしのほかに神はいない。5節

イスラエルの神、救い主よ。15節

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。22節

わたしのほかに神はいない。正義の神、救い主、わたしをおいてほかにはいない。21節

 

神様は、イスラエルの指導者であるモーセ十戒という十の戒めを与えられました。

その第一の戒めは、『あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない』という戒めでした。この第一の戒めは、一番根底に土台として私たちに求められていることです。信仰生活の一番の基本であり、初めであり、はずれてはならないことではないかと思います。

 

では、わたしのほかに神はいないと言われた神様ご自身はどんな神様でしょうかと人は問いたくなります。

モーセは、出エジプト記3章13節から15節で、『わたしのほかに神はいない』と仰せられるあなたの名は何ですか?と問いました。

神様は、ご自身の呼び名を『主』と呼ばせ、ほかの神々と区別されました。

神様ご自身が、歴史の中でイスラエルの民をエジプトから救い出したイスラエル人に現した主こそまことの神であることを教えようとされました。

異国人が神として崇めているのは神ではなく、あなたたちを救う力はないことを預言者を通して教えようとされました。

 

では、イスラエルの神、主とはどのような方なのでしょうか。

パウロは、自分自身が主に出会った体験を証しています。使徒22章8節から

『主よ。あなたはどなたですか』パウロは、いままで自分はイスラエルの神、主を信じ、主に仕えていると信じていました。しかし、パウロはその主が誰であるかを知らないでいたことがあきらかにされています。

パウロは、信じていると信じていたイスラエルの神はパウロ自身が作り上げた偶像であったということです。もちろん、主はパウロを知っていました。彼が誤っていることを。

パウロが『主よ、あなたはどなたですか』とへりくだって主の名を呼び求めた時、主はご自身が『わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ』とお答えになりました。

そこではじめてパウロは、主の名は『ナザレのイエス』であることを悟りました。

イスラエルの神、主を信じるとは、ナザレのイエスが主であることを信じることです。

 

神を信じているとはどのようなことでしょうか。

それは、神との人格的な交わりが有るということです。

神を信じるとは、神との生きた交わりがあることです。

しかし、人は罪があるため、直接に神と交わることはできません。

つまり、人は神を直接信じることができない存在です。

 

日本には、『鰯の頭も信心から』ということわざがあります。”イワシの頭のようなつまらないものでも、信仰すれば非常に尊いものに見えることから、信仰心の不思議さをたとえたことわざ。”だそうです。信じる心があれば、信じる対象はなんでもいいということではないでしょうか。

信じているという人の心(信心)が重要であって、神を信じているという心があれば、神がどのような方であるか知らなくてもかまわないということにもなるのです。

 

世界中には様々な宗教があります。一神教も多くあります。

一つの神を信じていれば、それはどれも同じ神を信じているのではありません。

パウロユダヤ教徒としてイスラエルの神を信じていました。

少なくとも自分は信じていると確信していました。

しかし、彼が信じていたのは、真の神ではなく、偶像でした。

 

人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。

エスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。Ⅰヨハネ4章2節、3節。

イスラム教の神、神道の神もいます。神を信じていると言えば、イエス様を信じているかと言えば、そうではありません。もっとも大切なことは、神を信じているかではなく、ナザレのイエスを信じているかです。この方を信じていることがまことの神を信じていることであると聖書は告げています。宣教とは、このナザレのイエスだけがまことの神であることを告げることです。

パウロは、ナザレのイエスを信じてはじめてイスラエルの神がどのような方であるかを知りました。

2019.10.20 茅ヶ崎集会

わたしについてきなさい。マルコ1章17節

人は『ついてきなさい』と言われて誰にでもついていくわけではありません。まして、仕事も家族も捨ててまでついていきたいと思うことは余程のことであります。

ペテロ達、ヨハネ達はなぜイエス様についていこうと決心したのでしょうか。

 

ガリラヤ湖のほとりを通られると、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった。彼らは漁師であった。イエスは彼らに言われた。『わたしについてきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう。』マルコ1章16,17節

 

私たちも時に魅力的な人に出会うことがあります。

その人のうちに輝く人格に魅せられることがあります。

そのような人に出会う時、私たちは魅せられてその人についていきたいと思うものです。

ペテロ達には、イエス様ご自身との出会いがあったと思われます。

エス様のご人格に出会い、魅惑されてしまったのであります。

 

エス様は御霊によって荒野に導かれたのち、サタンの誘惑を御言葉によって退け、聖霊に満たされてガリラヤにもどってきました。

エス様は聖霊に全く満たされて宣教を開始されました。

 

エス様は愛の人そのものです。イエス様には人としての美しさがすべて備えられていました。神様が人を創造されたときに人に願われた神の似姿をすべて完全に備えられていました。

真実さ、柔和さ、謙遜さ、優しさ、慈しみ深さ、勇気、力、輝き、美しさなど、人に与えられた罪に汚れる前の人の完全さがすべてイエス様には備えられており、それらがすべて輝きあふれていました。

エス様はそのようなお姿でガリラヤ湖畔を歩いておられたのです。 

 

 私たちは、イエス様ご自身、イエス様のご人格に出会う時、その言い尽くせないすばらしさに圧倒され、この方についていきたいと心を奪われてしまいます。イエス様ご自身との出会いがあるならば、この世のなにを捨て去ってもいい、何もいらないとすべてを捨ててしまうものです。

まだ、このイエス様に出会っていないのであれば、イエス様ご自身との出会い、イエス様の全人格との出会いを熱心に父なる神様に祈り求めましょう。

父なる神様は、イエス様に出会いたいという祈りに喜んで答えて下さいます。

 

 

2019.9.22 茅ヶ崎集会 建徳要旨

はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。ローマ10章18節

神様は、人を偏り見る方ではありません。

また、神様は人の外見を見るのではなく内面を見ておられる方です。

神様は、常に全地を見まわし、心砕かれた者を探しておられます。

また、神様全知全能の方であり、不完全であったり、不十分であったりすることはありません。神にとっては全てが可能なのです。

 

最近、セカンドチャンス論という人は死んだ後にも福音を聞いて救われる可能性があるという間違った教えがキリスト教会にも流布されているようです。そして、多くのクリスチャンがその誤った教えの風に吹きさらされています。

エス様の教えは、こうです。

『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます』

 

神様はそもそも人の外見を見てはおられません。その人の魂が砕かれているか、神を慕い求めている、探し求めている魂であるか、を見ておられます。

生まれつき目が見えないとか耳が聞こえないとか足が不自由であるとかという外見を見ているわけではありません。

心が砕かれているかどうかだけです。言い換えれば、罪を悔い、救い主を求める心をもっているかどうかを見ておられます。

神様は全能者です。心砕かれた者が地の果てにいたとしても、その人に福音を届ける方法を無限に持っておられます。

なぜなら、今は聖霊の時代であり、聖霊は全地に満ちておられるからです。

また、天使も神のしもべとして世界中に派遣されています。

あるジャングルの中に住んでいた人は、空の雲が十字架の形をしているのを見て救われました。

『その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てにまで届いた』ローマ10章18節

にあるとおり、福音の声は全地に響き渡り、すべての人に届いています。

肉体の耳が聞こえなくても、聖霊によって福音は耳の聞こえない人の心に届けられてます。

すべての人は生きている間に福音を聞くチャンスを平等に与えられています。

神様は人を偏りみない方だからです。

救われるかどうかは、この地上に生きている間に神様の御声に人が応答するかどうかにかかっています。

生きているときに、神の声に従うことのできなかった者に、まして死後に神の声に従うチャンスはありません。

死後の黄泉は、神のさばきを待つところです。

体に障害があろうと無かろうと関係なく、すべての人は心で信じるならば義とされ、信じないならば罪に定められます。

 

救いは神の選びと恵みです。人の権利として救われるわけでありません。

もう一度言います。救いは人の権利ではありません。神様からの一方的な憐みの心に拠ります。

そもそもすべての人は滅びているのであって、その滅びの中から理由はわかりませんが、選ばれて、恵みによって救われました。

もともと、滅びる存在ですから、なぜ滅ぼすのかと神に訴えることのできる立場ではありません。

しかし、ヒューマニズムは人には救われる権利があるかのように主張します。

 

神様は救われたクリスチャンに福音を伝える使命を託しておられます。

神様は、福音を伝えるように委ねた人々を私たちの前に置かれます。ですから、私たちの前に置かれた人々に福音を伝えることの使命を果たすことができれば十分であると思います。ある人は、多くの人に伝えることを委ねられたり、未開の地にまで派遣され伝えるように召される人もあります。ある人は、生涯にただ一人の人に福音を伝えるように委ねられることもあるでしょう。それぞれ、その人の器にふさわしく忠実に神の使命を果たせば、よくやった忠実なしもべよと天においてイエス様から褒められることでしょう。

私たちが出会うことのなかった人々については、聖霊様に委ねていればいいのです。神様は聖霊を通して全世界のすべての人々に福音を伝えておられます。

神様に落ち度があるということはないからです。

 

しかし、私たちは福音を宣べ伝えることに対して熱心でなければなりません。怠っていてはならないのです。全世界に出て行きすべての造られた者に福音を宣べ伝えなさいというイエス様の教えに忠実であるべきです。

 

 

 

あなたの年老いた母をさげすんではならない。箴言23章22節

あなたの年老いた母をさげすんではならない。箴言23章22節(新改訳)。

『戯れに母を背負いて、そのあまりに軽きに泣きて三歩歩まず』(石川啄木)。

強いと思っていた親がいつのまにか自分よりも弱くなっていることに気が付く日があります。親の変化を子供として素直に受け入れられる場合もあれば、いつまでも元気な姿でいてほしいと弱さを受け入れられない場合もあります。人それぞれです。神様は、人に齢を与えられました。誰でも幼き日から始まり、歳を重ね、神の御元に帰りますが、その変化の過程も全て神様の御手の中にあります。衰えという変化の中にも神様の摂理と慈しみを見ることができれば幸いです。

2019.9.15 敬老感謝会に向けて 茅ヶ崎集会 建徳要旨