心のきよい者は幸いです。マタイ5章8節
1:心のきよい人に与えられる幸いは神を見ることだとイエス様は言っています。
・人にとって幸いなことは、神の御顔を仰ぎ見て生きることです。これにまさる幸いはありません。
『私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために』詩篇27:4。と詩篇の作者は詩っています。
世の楽しみに満たされることよりも、素晴らしい幸いが神の民には用意されているのです。
私たちはどのようなときに神の御顔を仰ぎみるのでしょうか。
- 礼拝において
- 祈りにおいて
- 御言葉において
- 救いの完成において
2:イエス様は私たちが神を見るためには、心の清さが必要であると言っています。
こころのきよさがなければ、神の御心を悟ることができません。御声を聞き分けることができません。
今日の朝、このメッセージを用意するにおいても、世の思いで満たされてしまった私の心の汚れをまずきよめていただくことを聖霊に願い求めてからでなければ、このメッセージを教えられることもありません。騒ぎ立つ心の雑念を鎮めてからでなければ、神の声を聞き分けることができません。
3:清さとは何でしょうか。
この清さとは『ツァラートに冒されたものをきよめる』同8章2節で使われている言葉です。ツアラートに冒された者は、宿営の外に隔離され、神と人とから切り離される苦しみを負いました。ツアラートの汚れが取り除かれてから、彼らは民のもとにもどることが許されました。
イエス様がマタイ5章で心の清さの必要性について言及されたのは、神の民とされた人々の日々の生活において、神を仰ぎ見て生きていくためには、清さが必要であることを指摘されました。つまり、心の汚れを清くする必要性です。
へブル12章14節には、『聖くなければ、だれも主を見ることはできません』と記されていますが、ここでは、『聖』という漢字が当てられています。『聖』とは、神の所有として区別されるという意味ですから、神を見るためには、人はまず罪赦されて、永遠の命を得てからでなければならないということをへブル12章14節は指していると思われます。
4:心を問題にされたイエス様。
イエス様は心という外見では見ることのできない領域の清さについて言及され、人々の視線を自らの心に向けるように促されました。
『忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放銃でいっぱいだ。』23章25節。
5:心の清さを妨げるものがあります。
①汚れた思い、
②世に対する執着
③対処していない罪、高慢、憎しみ、恨み。
6:どのようにすれば心は清くなるのでしょうか。
根拠:イエス様の血潮には心の汚れを清める力があります。
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。Ⅰヨハネ1章7節。
方法:イエス様の血潮によって清められることを信じ、望む心によって私たちの心は清められます。
『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります』8章2節
決心:主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義から離れよ。Ⅱテモテ2章19節。
きよさに常にあずかるためには、自ら不義を離れる決心もまた必要です。
心を汚す誘惑は常にあります。退けようとしてもしつこく追いかけてくることもあります。しかし、それだけではなく、自ら汚れを楽しみ汚れをもたらす不義から離れようとしていないこともあります。
7:清めを求めるのは、自分自身のためだけではありません。
『ですから、誰でも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。』Ⅱテモテ2章21節。
清さを求めるのは、主の御用に与る者となるためです。神様の目は節穴ではありません。全世界を常に見まわし、主の御前に心を整えている者を探しておられます。
2019.8.25 茅ヶ崎集会メッセージ要旨。