神様は、人を偏り見る方ではありません。
また、神様は人の外見を見るのではなく内面を見ておられる方です。
神様は、常に全地を見まわし、心砕かれた者を探しておられます。
また、神様全知全能の方であり、不完全であったり、不十分であったりすることはありません。神にとっては全てが可能なのです。
最近、セカンドチャンス論という人は死んだ後にも福音を聞いて救われる可能性があるという間違った教えがキリスト教会にも流布されているようです。そして、多くのクリスチャンがその誤った教えの風に吹きさらされています。
イエス様の教えは、こうです。
『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます』
神様はそもそも人の外見を見てはおられません。その人の魂が砕かれているか、神を慕い求めている、探し求めている魂であるか、を見ておられます。
生まれつき目が見えないとか耳が聞こえないとか足が不自由であるとかという外見を見ているわけではありません。
心が砕かれているかどうかだけです。言い換えれば、罪を悔い、救い主を求める心をもっているかどうかを見ておられます。
神様は全能者です。心砕かれた者が地の果てにいたとしても、その人に福音を届ける方法を無限に持っておられます。
なぜなら、今は聖霊の時代であり、聖霊は全地に満ちておられるからです。
また、天使も神のしもべとして世界中に派遣されています。
あるジャングルの中に住んでいた人は、空の雲が十字架の形をしているのを見て救われました。
『その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てにまで届いた』ローマ10章18節
にあるとおり、福音の声は全地に響き渡り、すべての人に届いています。
肉体の耳が聞こえなくても、聖霊によって福音は耳の聞こえない人の心に届けられてます。
すべての人は生きている間に福音を聞くチャンスを平等に与えられています。
神様は人を偏りみない方だからです。
救われるかどうかは、この地上に生きている間に神様の御声に人が応答するかどうかにかかっています。
生きているときに、神の声に従うことのできなかった者に、まして死後に神の声に従うチャンスはありません。
死後の黄泉は、神のさばきを待つところです。
体に障害があろうと無かろうと関係なく、すべての人は心で信じるならば義とされ、信じないならば罪に定められます。
救いは神の選びと恵みです。人の権利として救われるわけでありません。
もう一度言います。救いは人の権利ではありません。神様からの一方的な憐みの心に拠ります。
そもそもすべての人は滅びているのであって、その滅びの中から理由はわかりませんが、選ばれて、恵みによって救われました。
もともと、滅びる存在ですから、なぜ滅ぼすのかと神に訴えることのできる立場ではありません。
しかし、ヒューマニズムは人には救われる権利があるかのように主張します。
神様は救われたクリスチャンに福音を伝える使命を託しておられます。
神様は、福音を伝えるように委ねた人々を私たちの前に置かれます。ですから、私たちの前に置かれた人々に福音を伝えることの使命を果たすことができれば十分であると思います。ある人は、多くの人に伝えることを委ねられたり、未開の地にまで派遣され伝えるように召される人もあります。ある人は、生涯にただ一人の人に福音を伝えるように委ねられることもあるでしょう。それぞれ、その人の器にふさわしく忠実に神の使命を果たせば、よくやった忠実なしもべよと天においてイエス様から褒められることでしょう。
私たちが出会うことのなかった人々については、聖霊様に委ねていればいいのです。神様は聖霊を通して全世界のすべての人々に福音を伝えておられます。
神様に落ち度があるということはないからです。
しかし、私たちは福音を宣べ伝えることに対して熱心でなければなりません。怠っていてはならないのです。全世界に出て行きすべての造られた者に福音を宣べ伝えなさいというイエス様の教えに忠実であるべきです。