主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。イザヤ53章5節

私たちはどのようにしてイエス様を自分の救い主として受け入れ、信じることができるのでしょうか。イエス様の苦難はどのように私たちと関係するのでしょうか。

 

53章は、苦難のしもべ、イエス様の受難の生涯を描いたものです。特に、十字架につけられる前後のイエス様の姿を預言しています。

ドラマのような構成になっています。5節までが前半、6節から後半の大きく2部に分けられます。前半は、苦難のしもべの生涯と信じる者がどのような関係にあるか。後半は同じく、苦難の僕の生涯と神様の御旨について描かれています。

 

前半、若木のようにすくすくと育ったしもべが、ある時を境に苦難を負い始めます。

初めは他人事のように、上から目線で、因果応報の視線で苦難の僕を描きます。

ところが、ある瞬間から、彼の苦難は身代わりにより、いやしが私たちに臨むという発見、驚きが起こります。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。5節

 

後半、彼の苦難に対する神様からの御旨が明らかにされていきます。

エス様の姿は、私たちが避けて通りたいこと、いやそれ以上に、忌むべきこと、認めたくないことです。

私たちはイエス様の姿を無意識的に見ないようにし、見ても、それは、自分とは無関係なこととし、もしくは、上から目線で他人事のように解釈してしまいます。

しかし、イエス様は、私の身に起こっていることは、あなたの身に起こっていることであることに気が付いてほしいと願っています。

 

しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末永く、子孫をみることができ、

主のみこころは彼によって成し遂げられる。10節

 

エス様の姿に気が付くのはどういうときでしょうか。

それは、自分自身の身にイエス様の受けているような苦難が生じた時、その時からイエス様の苦難に、初めて自分の姿を重ね合わせることができます。

エス様は、イエス様の上に起きた苦難に自分を重ね合わせるまで十字架の上でじっと私たちを待っているかのようです。

エス様の十字架の上に己を重ね合わせることができた時、つまり、主は私の苦難をすべて身代わりとして負って下さったことを見ることができた時、

私たちの魂は救いへと導かれるのです。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。Ⅰテモテ1章15節

 

降誕記念日にイエス様の受難の生涯を心に刻みたいと思います。

 

2019.12.22 茅ヶ崎クリスマスメッセージ要旨。