十字架にかけられたイエス様の予表としての青銅の蛇
モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子もまたあげられなければなりません。ヨハネ3章14節
6節:罪の報酬は死であると聖書は言っています。私たち罪人は、肉体の中にある罪ゆえに滅びに定められています。
彼らは、人ひとりの神に対する不信仰により、彼らは蛇の毒によって死ぬことが定まってしまった。蛇はサタンを意味し、蛇に噛まれるとはサタンの武器である死を受ける事を意味する。
神を信じないことは罪であり、罪の報酬は死であり、滅びの道に向かうことを表している。
7節:人は、自ら義となり、聖となって救われることはできません。
彼らは救われるために蛇を取り去るという方法をモーセに願いました。
これは、人の中から罪を取り除くことにより生きる事ができると考えた人の知恵です。
しかし、人は生まれながらの罪人であり、この肉体の中にある罪を罪だけ取り除くことはできません。人は清くなって救われるのではない、きよくなって死を免れるのではない。義しい人は一人もいないのであり、聖い人も一人もいないのです。
8節:主は憐み深い方です。
私たちが神に言い逆らい、自分の犯した過ちによって滅びるほかないものであるにも関わらず、人々の叫びに耳を傾け、私たちを愛されているがゆえに、救いの道を提供される方です。
しかし、その方法は、人の願う方法ではなく、神ご自身が指定された方法によるのです。主は、モーセに『あなたは燃える蛇を作り、それを旗竿の上につけよ。すべてそれを仰ぎ見れば生きる』と約束されたのです。
9節: 青銅の蛇は個々の蛇を代表する
モーセは青銅の蛇を作った。一つの蛇を作った。これは、蛇をいくつも作るのではなく、ただ一つの模型を作った。これは、個々の蛇を代表したものである。そして、すべて蛇を象徴的にあらわしたものであった。
神様は、かまれた一人ひとりから蛇の毒を抜き去っていやしたのではなかった。毒は彼らの体の中にあった。しかし、毒が体に回っていても、青銅の蛇を仰ぎ見たものは生きることができた。青銅の蛇を仰ぎ見なかったものは死んだ。
神様が指定した救いの方法に従った者は生きることが出来た。
彼らは蛇の毒が体に回り、地をのたうち回りながらも必死で、旗竿の上につけられた青銅の蛇をみたはずです。彼らは、青銅の蛇というただ一つだけある蛇の模型を見た時にそこに自分をかんだ蛇がつけられていることを信仰の目で見る事を要求されたのです。
イエス様はすべての罪人の代表となられた。
旗竿の上につけられた青銅の蛇とは、イエス様の十字架の上に乗せられている私たちの罪です。
青銅の蛇が、個々の蛇を代表していたのように、イエス様はすべての人の罪の代表となられました。
救われるためには信仰を求められる。
神様はなぜ、人々を総ざらい救って下さらないのでしょうか。イエス様がすべての人の罪の代表として死なれたのなら、すべての人はイエス様の死によって滅びから免れてもいいと人は考えます。
青銅の蛇を見上げた者だけが救われたように、今も同様、十字架につけられたイエス様がわたしの罪を負って下さって死なれたということを信じ見上げる者だけが、滅びから命へと移されるのです。
イエス様が私の罪の身代わりとなって十字架について下さったことを信じる者は救われるということを青銅の蛇の物語は私たちに教えてくれています。
2020.2.9 名古屋集会メッセージ要旨。