主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

彼らは、イエスを十字架につけた。マルコ15章24節。

人の罪

群衆もはじめはイエス様がメシヤではないかと期待していた。奇跡の御業、その恵みの言葉、権威ある言葉に期待していた。はじめは期待して待っていたが、自分たちの期待通りに事を進めてくれないことに気が付き始める。

ついに、ユダヤ人の王としてローマ軍を追い払うどころかローマの兵隊に捕らえられしまった。奇跡によってローマ軍を追い払うのではないかという期待も外れた。

三日で神殿を立て直すと言われたイエス様の言葉もただの大言壮語に過ぎなかったと思われた。

律法学者たちもはじめは、もしかしてこの方がメシヤなのかと慎重に探りを入れていた。

しかし、やがて、自分たちの言動を批判するもの、自分たちが守り築き上げてきた宗教制度を批判するものであること、自分たちの体制が崩されることに危機を覚えた時、彼らの態度は一変した。

兵士たちもはじめは、イエスの力に期待していた。

しかし、何の抵抗もなく兵士に捕らえられ、目の前にイエスを見ると、ユダヤ人の王といっていた青年があまりにも弱弱しいことに驚き、

蔑み、軽蔑、侮辱の対象に成り下がってしまった。

力の世界に生きている者たちにとって無力な者は価値のない人間であった。

 

光に近づくほど、影の黒さも濃く映ります。

エス様が、無言で抵抗せず、罪のない姿で罪びとの前に現れるほど、一層人の罪が暴かれていきます。

 

人の罪とは、

神の御心を無視し、神の御心を尋ね求めず、

自分の心の思いのままに生きようとする人の心。

神に聞かず、自分の願いを実現していこうとする人の心。

 

私が、自分の罪をなげき、罪なきキリストの赦しを切実に希うように至ったのは、

 

私は、すでに洗礼を受け、イエス様が私を滅びの淵から救い出して下ったことを知ってました。イエス様を個人的な救い主として信じていました。

エス様は私にとって命でした。永遠の命の約束は確かなものでした。

しかし、イエス様が私の罪の赦し主としてイエス様を受け入れたのはそれから、4年ほどたってからでした。

 

 

主の御心を尋ね求めることなく、自分の願いを実現させようとしていた自己中心的な心の態度こそ、私の罪でした。

エスキリストを人生の中心として生きようとしていないことが私の罪でした。

この罪によって、私は神のさばきを受けるほかないと、

しかし、私は神の裁きを受ける事が恐ろしい、

いったいどうしたらこの罪が許されるのか。

それは、罪のない方はわたしの罪の身代わりとなっていただくほかない。

罪のない方はイエス様しかいない。

エス様だけがわたしの罪の身代わりとなって神のさばきを引き受けることができる。

エス様の身代わりだけが、神様の心を満足させることができると霊に教えられ、

エス様を私の罪の赦し主として受け入れました。

 自分の思い、考え、期待、願いだけが強すぎて、イエス様がそこにいることに気が付かない。そして、環境に不満をぶつけ、結局はイエス様に不満をぶつけてしまっていた私の罪。

 

エス様の御心を尋ね求めながら生きる事が大事であることを教えられ、

祈りの生活が始まりました。聖霊も受けました。

日々、福音を伝えることに熱心な毎日が始まりました。

しかし、それでもなお、振り返ってみれば、自己中心的な生き方を通そうとしている私の罪に気が付きます。

結局のところ、私が生きている存在そのものが罪であり、神の御心にそぐわないものであることに気が付きます。

自己存在そのものが罪であり、神のさばきに値することを知った時、

同時に、このような罪人を赦して下さるイエス様の救い、

エス様の憐み、

エス様の恵みに気が付かされたのです。

罪が増し加わるところに恵みも罪を覆いつくすように増し加わっていきます。

エス様の十字架による罪の赦しの福音は、

個々の過ちを赦すだけでなく、

御心を悲しませてしか歩むことのできない人間の愚かさをイエス様は知り尽くしたうえで、なお、人間の愚かさによって滅びに至るのではなく、

神の聖なるゆえに、神のご計画を遂行していくことのできる福音なのです。

罪の赦しの福音を教えられた者はなんと幸いなことでしょうか。

 

2020.3.22 茅ヶ崎集会建徳要旨