なぜなら、キリストイエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。ローマ8章2節
1.原罪を自覚する。
わたしはその罪人のかしらです。Ⅰテモテ1章15節
パウロが私は、罪人のかしらであると自分を言い表した時、これは、ほかの人と比較して語ったのではない。
頭というのは、体を支配するコントロールセンターととらえてもいい。
パウロは自身を顧みた時、過去において罪人であったと言い表したのではなく、かつても今も罪人のかしらだと言った。
パウロは、何か個別に律法に反したから罪人だと言ったのではない。
自分自身の存在そのものが罪人なのだと表現した。
罪人であるとは、神の御心に沿えない、どんなに御心に沿う生き方を選ぼうとしても、
神の道からはずれてしまう人の存在。一部分において神の律法を瞬間的に守れたとしても、全体におては常に神の基準に達することのできない人の存在。
人が生きていること自体が神の道からの的外れであるという自覚を持っているだろうか。
愛することの大切さを知っていても愛せない、
赦すことの大切さを知っていても許せない、
思い煩わなくてもよいと知っていても、日々おもいわずらう。
怒ってはいけないとしっていても怒ってしまう。
情と肉欲の思うままに生きてはいけないとしっていても、日々誘惑から離れられない。
してはいけないことはなんであるか知りながらしてしまう自分。
してよいことを知っていてもすることのできない自分。
こんな肉体を持つ人の性、肉の弱さを日々自覚しているだろうか。
パウロが自身を私は罪人のかしらだと表現したのは、このような原罪と言われるような人の存在を言いたかったのではないか。
しかし、パウロを含めたユダヤ人は律法という神からの恵みを与えられている分、幸せである。何が良くて、何が悪いかを教えられているからである。
一方、日本人のような異邦人は、律法を与えられていない。
幼心に与えられた良心もいつのまにかマヒしてしまい、
それゆえ、初めから肉の思うままに生きている、自分の感情、この身、自我の赴くままに罪を犯し続けてしまう。いずれにせよ、神の怒りの中にある。
聖書が罪という時、これは、人同士の比較の話をしているのではない。
神の目、神の道、神の基準から人を見た時の話である。
神の基準という視点を覚えないと、私が罪人だと言われても、『私は何も法律違反をしていない。私は、そんな悪い人間ではない。良くもないが悪くもない』となる。
神の基準、律法と言っても、そもそも私はユダヤ人ではないから、律法などなにも関係がないと思ってしまう。
自分の行いと生き方が罪であり、その罪は神の怒りに遭い、それゆえ、罪から離れる必要があると自覚すること自体、神の助けがなくてはできない。聖霊という神の霊が人に臨んでこそ、初めて人は罪を自覚することができる
罪の概念をいくら説明しても、本来の人は理解できない。
人は罪を犯した結果、神から切り離されてしまった。
そして、人の本質である人の霊魂は死んだ状態になってしまった。
人は霊魂は死んだ状態のままこの世に生まれてくる。(日本人にも分かりやすいように霊ではなく、霊魂と言っている。)
そして、神が定められたその人の寿命分だけ与えられている肉体の命の量に従ってひとは生きている。しかし、その命はやがて尽きる。
2.原罪の赦し。
人が、罪を犯しながらしか生きることができない。常に肉欲の弱さを抱えながら生きていることに気が付きながら多くの人は生きているのではないか。大人になるということはそういうことかもしれない。
その中で、少しでも良い生き方を選択していこうとする人とあきらめて欲望のまま、自己の欲するままに生きる人とに分かれてくるのかもしれない。
少しでも良い生き方をしようと聖書を読むとそこには、イエス様が最高の人の倫理と言うべき山上の教えも載っている。
しかし、この山上の教えを自ら実践しようとすれば、すぐにつまずいてしまう。
人は罪を犯した結果、神から切り離されてしまった。罪は、神ととの交わりを遮断する。
それゆえ、神から来る永遠の命を失ってしまった。それゆえ、人は死ぬ。
神との交わりを回復させるためには、罪が取り除かれなければならない。
しかし、人は自分自身で罪を取り除くことができない。それは人の存在そのものが罪(原罪)であるから。
このことを人以上によく知っている神様は、人の罪を取り除くために、
救い主をこの世界に送られた。それが、イエス・キリスト。
人はどれほど努力しても自分自身を救えない。自分に自分の罪を取り除くことはできない。
神様は、このような絶望的な状態にある人に救いの手を差し伸べられている。
神は、罪のないキリストをこの世に送り、イエスとしてこの地上を歩まれ、33年の生涯の最後にイエスを十字架につけ、すべての人の罪の身代わりとして十字架の上で人の罪を処罰された。
神は、御子キリストの十字架の死をもって、罪人である人のすべての罪を帳消しにされた。
それゆえ、誰でも、このキリストを自分の罪からの救い主として受け入れる者は、その罪がゆるされるという約束を与えた。
神様が送られたキリストの手を握りさえすれば、キリストがあなたを罪の中から引き揚げて下さる。
3.罪を痛恨する。
罪に対する痛みを感じているか。感じることのできた者は幸いである。
パウロは、自身が、ユダヤ人のエリートであり、神に熱心であり、永遠の命を得る資格あると本気で信じ、クリスチャンを迫害していた。しかし、その彼の生き方が、完全に間違っていたこと、神を信じている、神を愛していると自負しながら、実は神を迫害し、神を敵としていたことを教えられた時、罪に対する痛みで彼は心が張り裂けそうであった。いや言葉では言い表しがたい痛恨の極みであった。
このような自分の罪を赦すために、イエス・キリストを迫害していた自分をゆるすために、イエス・キリストは十字架につき、パウロの犯したすべての罪を帳消しにしてくださった神の偉大な本当の愛に触れたパウロは変えられた。
罪を心から悔いることのできる者は幸いで、イエスキリストの十字架の愛を知る。
4.いのちの御霊の原理によって生きる。
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その善い行いをもあらかじめ備えて下さったのです。エペソ2章10節
パウロがガラテヤ人への手紙で、彼らを愚かなガラテヤ人よ。と叱責したのは、
彼らが、良い行いに生きるためにまた肉の力を用いようとし、的外れな生き方をし始めたからである。
パウロは、自身を罪人のかしらだと言ったのは、今なお、自分の肉の中には、良い行いをする力がないという徹底的な罪の自覚からそういったに違いない。
しかし、救われたガラテヤ人クリスチャンにはまだ、その自覚に乏しかったのであろう。
ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。
あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。ガラテヤ3章1,3節
神様は、イエスキリストを信じ、罪赦され新しく生きる者となったクリスチャンに、新しく良い行いをして歩むための力も用意されていた。
それが、いのちの御霊の原理である。
なぜなら、キリストイエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。ローマ8章2節
いのちの御霊の原理によって生きるためにはどうしたらよいか。
いのちの御霊の原理に歩む力がすでに与えられていると信じることである。
いのちの御霊によって満たされるように祈り求め、与えられたと信じながら日々生きる事である。
そのとき、愛せなかった人が愛せるようになり、
許せなかった人が許せるようになり、
怒りから解放され、
情欲から解放され、
自己憐憫から解放され、
傲慢から解放され、
不安から解放され、
様々な偶像礼拝からも解放されるようになっていく。
一度にすべてからは解放されないかもしれないが、
根気よく信じ続けることによって、いつのまにか少しづつ、
自分は変えられていくことに気が付くようになる。
パウロはアジアの教会の人々に自身も体験していったこのいのちの御霊の原理によって生きることを力強く書き記し、伝えていった。
2020.8.9 茅ヶ崎集会メッセージ