まとめ。
1.イエス様はいのちのパンを与える御方
3.教会に託された使命
4.イエス様の祝福に対する間違った姿勢
1.イエス様はいのちのパンを与える御方
どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。~イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。5,6節
この6章の1節から15節までは、4つの福音書にすべて書き記されたイエス様の物語です。
この物語から伝わることは、イエス様が奇跡をなさる方であり、人々にパンを供給することのできる創造者、憐み深い神であることはもちろんです。
が、この物語は、6章の後半にイエス様自身が言われた『わたしはいのちのパンです』と、イエス様は人にいのちを供給することのできるお方であること、そして、イエス様ご自身がいのちのパンであることを教えるためになされた奇跡であると言えます。
6章の後半の『わたしはいのちのパンです』という真理を目に見える形で人々に分かりやすく伝えるための奇跡と言ってもいいと思います。
ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。6章9節
もう一つ大切なことは、このような奇跡をなさるイエス様に対して弟子たちはどのような心の姿勢、すなわち、信仰を持てばいいのかを教えてくれています。
ヨハネ福音書に出てくる登場人物は、その都度イエス様に対する信仰の姿勢を私たちに教えてくれます。福音書は弟子たちの視線から見れば、イエス様への出会いの物語です。
イエス様は大勢の人々の群れがおなかをすかしていることを知り、ご自身は何をしようとしているかを知っていました。すなわち、イエス様は、この大勢の人々に給食をしようと自ら決めておられたのです。
ここには、ピリポとアンデレとそして無名の少年の3人の登場人物がいます。
・ピリポは計算が上手で現実的なため、イエス様に問いかけられ、さっと計算し、自分たちの手で5000人以上の人々への給食はとても無理!!!とイエス様からの問いかけを拒絶してしまいました。
・アンデレは、イエス様の問いかけに、自分の周囲を見回して、わずかな5つのパンと2匹の魚があることに目を留め、イエス様に差し出しました。アンデレ自身も、これでは何にもならないとつぶやきました。
・少年は、自分の大切な御飯であった5つのパンと二匹の魚をイエス様に使っていただきたいと差し出しました。
私たちの模範となる態度はどのようなものでしょうか。
・イエス様はすべてをご存じで、すべてをなさる方だから、私たちはお任せで何もしないで見ていればよい、のではありません。
・私たちが為すには能力が、材料が不足しすぎて、あきらめて何もしないのでもありません。
・イエス様が、ピリポを試したように、イエス様は私たちのことも試します。
何か、教会の課題が見えてきたとき、私たちはどうしようかと思案します。実はその時、見えてきた教会の課題は、イエス様が問いかけてきてくれる課題なのではないでしょうか。
『まこと、あなただったらどうする?』と。
・その課題に対して、私にできること、主に捧げられる素材はないだろうか、手持ちの小さな資源はないだろうかと周囲と自分自身という資源を見つけ出し、それをイエス様に捧げる。その時、イエス様はそれを取り上げて下さり、祝福して下さり、神の国の働きを自ら進めて下さる、そこから道を開いて下さると信じるという態度こそ大切なのではないでしょうか。
3.教会に託された使命
目を上げて畑を見なさい。色づいて刈り入れるばかりになっています。4章35節
この物語は宣教への勧めです。
弟子たちが5千人の人々にパンを分け与えた姿は、イエス様が、教会を通して、人々へいのちのパンである神の言葉を分け与えていく姿を現しています。
神様は、イエス様を教会のかしらとし、教会に体である弟子たちを通して、福音宣教を進められます。
その時、必要なことは五つのパンと二匹の魚を主に捧げていくこと、主が小さなことをも取り上げて祝福して下さるという信仰をもって行動していくことです。
4.イエス様の祝福に対する間違った姿勢
そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。6章15節
6章66節には、『こういうわけで、弟子たちの多くの者が離れ去っていき、もはやイエスとともに歩かなかった』とあります。
悲しいことに、一度イエス様に従っていこうと歩み出した者たち、自称弟子であるものたちは、イエス様が自分たちの期待していた預言者と違っていたことに気が付くとあっという間に身をひるがえしイエス様から去っていきました。
イエス様はこのような形で離れていく者たちをとどめたりはしませんでした。
5千人の給食の奇跡と祝福を目の当たりにして、
人々はイエス様の祝福を勘違いしました。
イエス様の祝福を自分の欲を満たすために利用しようとしました。
しかし、自己の利益のために主を利用とする者たちから、イエス様は離れていきます。
もし、私たちが教会のために、主の為にと一生懸命捧げてきたのに、一向に主の祝福が現れないと嘆いていることがあったとしたならば、それは、教会の成長、発展、という宗教的な自己利益のためにイエス様を利用しているのかもしれません。
そのような動機で、主の祝福を求めようとしているとき、
イエス様は祈りに応えず、一人、山に退いてしまわれます。
2020.8.23 茅ヶ崎集会メッセージ要旨