主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められるところをよく見ていた。マルコ15章47節

主イエス様、あなたの葬りについて教えてください。

1.イエス様の葬り

使徒信条に死にて葬られという告白があります。

三日目に死人の内よりよみがえる前に、葬られたと告白しています。

エス様の女の弟子たちは十字架の上で苦しみを受け、目をそむけたくなるようなむごたらしい姿、傷ついた血だらけの姿になったイエス様を見て、

その体を男の弟子たちと十字架から降ろし、そして

エス様の死体を亜麻布で丁寧に巻き、新しい墓に丁寧に葬りました。

女の弟子たちは、イエス様が墓の中に葬られるところを最後までしっかりと見届けていました。

 

前回のメッセージに続くことですが、

エス様が墓に納められたというところをこの弟子たちがしっかりと見届けたということは、とても大切な信仰の過程なのではないでしょうか。

すなわち、人の力の及ばないところにイエス様は行ってしまったということをしっかりと認めざるおえない、ということが葬りの意味なのではないかと教えられます。

 

エス様の復活の前に、十字架があり、そして葬りがなされ、そしてその墓は大きな石でしっかりと封印され、とても女の手では動かすことのできないその大きな石の向こうにイエス様の亡骸は葬りさられてしまったという事実を受け止めたのちに、復活がある。

 

2.非常に大きな石

実は復活の前に、よみに下りとあります。

 

わたしは、この大きな石はよみの封印ではないかと思います。

よみは人を死の世界に封じ込めます。

人はだれも死んだ人をよみがえらせることはできません。

死の前に人は全く無力です。これは事実です。

しかし、キリストは、この死を打ち破り復活され弟子たちの前に現れた。これもまた大いなる事実です。

死によって愛する人を分け隔てる大きなよみという石はとりのけられた。

この大きな石は転がされていた。

人にはできなくても神にはできる。神には何でもできる。という信仰を私たちはこの石がとりのけられた事実から持つことができるのです。

マルコ16章4節

ところが目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでに

ころがしてあった。

 

 

3.イエス様が葬られよみにくだり三日目に死人の内よりよみがえられたことの力

マタイ16章18節 新共同訳

『わたしも言っておく。あなたはペテロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。』

 

エス様はなぜよみに下られたのか

エス様はご自分の罪なきからだを罪のためのあがないの供え物として父なる神様に捧げたのちに、

罪人として死に、罪人としてよみに下られました。

罪人として罪の性質をもつ古き体をよみに捨て置いたのです。

エス様は罪なきご自分のからだを通して、人の罪のからだをよみの世界にまでもっていき、そこに捨ててしまわれた、葬りさって下さったのです。

言葉は悪いですが、人のゴミをゴミ捨て場にすべて処分して下さった。

すべてを始末し終えたのち、神の全能の御力により、よみより復活されたのです。

 

 

Ⅱテモテ2章11節に

『もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる』と記されています。

死んだのならキリストとともに生きるようになる。これは連続した道筋です。

死んで、死にっぱなしということは決してありません。

ガラテヤ5章24節

『キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまな情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです』

情欲・欲望は十字架につけられました

2章20節

『私はキリストとともに十字架につけられました。もやは私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです』

 

6章14節、Ⅰ5節

『この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です』

私たちを種々の誘惑にいざなうサタンの支配する世も十字架につけられました。

4.古い自分を葬る

誰でも古い自分、すなわち肉の働きに悩まされます。

人の中には、人を裁く心、憎しみ、敵意、激しい暴力、激しいねたみ、許せない心、殺人、・・・ありとあらゆる悪が人の中に存在しています。

人の肉が人を愛することを妨げ、人を傷つけ、人間関係を破壊しようとします。

これらの悪を自分の理性や知性や感情でコントロールしようとしてもできません。

 

私はここで気が付くのです。

もちろん、私たちは先に記した肉の働きに留まることを善しとはしません。

キリストによって新しい命をいただいたのですから、新しい命の性質の中に生きることを望みます。

新しい命にいきるとはキリストの復活の命に生かされることですが、

 

キリストとともに生きるために、

①まず、古い自分には新しい命に生きる力は持っていないことをしっかりと認めます。

②さらにこの古き自分を自分で捨て去ることはできないことも認めるべきです。私は、まったく無力だ。よいと思うことを実現する力がないと絶望すべきです。

③絶望のままに、その古き自分をイエス様が十字架の上で背負って下さってることを見ます。

④そして私はイエス様とともに十字架につき死んだのだと認めます。

⑤そして、私はイエス様とともに葬られたのだと認めます。

⑥認めたのなら、私によってではなく、イエス様ご自身の復活の御力にあずかって私のうちにも新しい命が宿っているでしょう。新しい命が私を包み込み、私に代わってイエス様が新しい生き方をして下さるでしょう。

 

 2021.3.28 茅ヶ崎集会メッセージ