墓の入口からあの石を転がしてくれる人が、だれかいるでしょうか。マルコ16章3節
主よ。あなたにはお出来になります。
私にとっての今年のイースターの御言葉は表題に掲げた『目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった』マルコ16章4節でした。
昨年の秋から、長男が突然学校に行かなくなり、あれほど、毎日学校にいくことを楽しみにしていた子の突然の出来事に戸惑いました。
本人も相当悩んでいて、『行きたいけど行けない。』怖いと怯えていました。
二学期の間は本人も何とか行こうと努力している様子もあり、こちらも、運動会など何回かは行くことができました。
しかし、3学期に入ると、本人の様子から本人もどうやら行かないことに決めた様子で、とうとう一回も学校に行かず、家でゲームなどをしながら過ごしていました。
長男の前には、転がすことのできない大きな石が立ちはだかり、本人も転がせない、親にも学校の先生にも転がせないこの大きな石の存在に
『墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか』という心境でした。
行きたくても行けないのだから、イエス様が学校に行くことを留めているに違いないとこれもイエス様の御計画の内にあると信じていましたが、心穏やかでなかったのも事実でした。
今年に入ってから、私もただ悩んでいても仕方がないと福音書から、ラザロのよみがえりの福音、百人隊長の息子のいやしの福音、ヤイロの娘の福音、そしてイエス様の復活の福音の出来事を幾度も読み返しながら、
私に何をしてほしいのか?と問われるイエス様に、『5年生になったら学校に通えますように』していただきたいと祈り求めました。
今年の3月くらいになって、息子といろいろと話している時、本人がぼそっと5年生になったら行くと口にしました。その言葉が思いがけなかったので、少し驚きましたが、本人からの前向きな言葉に平安を得ました。
その言葉を問い正すこともせず、そっと聞き流しましたが、この日から、さらにイエス様の復活の福音を読みながら、あれほど大きな石であっても、イエス様は取り除けることが出来ると信仰を告白しながら祈り続けました。
人にはできなくても神にはできることを主の前に告白を続けました。
イエス様が子供の受けた心の傷を癒して下さるように。
イエス様が、内なる人を強めて下さるように。
イエス様が、恐れを取り除き、平安を与えて下さるように。
イエス様が、学校の子どもたちに平和な心を与えて下さるように。
祈り続けました。
4月に入りもうすぐ始業式。私は、仕事を休んで、一緒に始業式の日には行ってあげると約束していました。
前日には、始業式に持っていくものを久しぶりにランドセルに用意するのを手伝いました。
前日から本人は緊張している様子がうかがえましたが、そっと見守りながら
当日を迎えました。まだ、布団の中から起きようとしません。
でも、やがて自分で起き、登校の時間になったので、誘うとランドセルを背負って外にでることができました。
幸いに、この1週間無事に登校できています。先生方も配慮して下さったのか、
同じクラスに子供の遊び友達を集めてくれていて、本人も友達がたくさんいることを喜んでいました。
主よ、感謝します。あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてありました。
木村先生、昨年はいろいろとありがとうございました。親も本人も先生も何もすることはできませんでしたが、何もできなくても先生が最後まで心配して下さっていたことが
本人にも親にも大変心強く支えられていました。
今年も先生が5年生の担任になると思っていましたが、突然の退任で子供も私たちも挨拶することもできずに残念に思いますが、子供にとっての4年生の時の担任は、木村先生だけですから、本人も忘れることはないでしょう。
主よ、感謝します。そしてあなたに信頼しながら続けてお祈りします。