主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。伝道の書12章1節

神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。Ⅰコリント2章10節

主イエス様、あなたは御霊によってあなたご自身の存在を私たちに教えて下さいました。

 

先日、教会の姉妹から3月27日つけの朝日新聞の”『魂』はそこにある”というコラムの切り抜きを頂き、多くの日本人が忘れてしまっている魂の存在について話す機会を得ました。

このコラムは、キリスト教の世界の話ではありませんが、『霊性』に関する考察でした。

この話からふとインスピレーションを受け、神様の御霊の存在を改めて意識する機会を得ました。

 

いわゆる目に見えない雰囲気を感じ取る力ですが、これは子供の方がその感覚が鋭い気がします。

私自身、子供の頃に触れた教会を思い出すとき、思い出すのはそこにあった雰囲気の居心地の良さです。

母子家庭で育った私は、家に帰っても誰もおらず、一人っ子だったので家の中では一人で遊んでいました。妹はいましたが、歳が離れていましたので、なぜかあまり一緒に遊んだ記憶はありませんでした。こんな中でいつもさみしさと孤独を感じていました。

 

母の友達から紹介されて5,6年生の頃から通い始めた教会は、駅まで30分以上歩いて、さらに電車に乗って、さらに歩いてと一時間半以上かかっていたと思いますが、

なんの苦にも思わず、通える時には、教会に行くのを楽しみにしていました。

教会の門をくぐると、広い敷地に子供たちが駆け回り、楽し気な声が聞こえてきます。

分級での聖書の話はよく分かりませんでしたが、分級の教室の雰囲気、担当の先生の雰囲気、牧師の雰囲気、たまに入ることのできた大人たちの礼拝の雰囲気、

これらの雰囲気の中にある暖かさ、優しさ、平安を味わっていました。

 

子どもの頃に教会から受けたのは知識ではありませんでした。

そうではなく、あの雰囲気、霊性を受け取っていたのです。

その霊性の雰囲気は今でも私の魂に呼び起こすことができます。

 

あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。と伝道の書にあります。

これは若い日に、早く洗礼を受けてクリスチャンになりなさいという勧めではないことに気づきました。

そのように勘違いしていた気もします。

 

しかし、そうではなくて、神様の霊を感じ取ることのできる受容性の高い若い時代に

造り主の霊にしっかしと触れて、この世から発せられる霊と異なる、

人の魂を高く引き上げてくれるこの平安な霊の存在を覚えておくことが勧められているのではないかと思うのです。

 

パウロは、宣教において、十字架の言葉を語りましたが、かれは十字架の言葉を通して、御霊と御力が現れることを信じ、期待していました。

パウロは神を知るのは神の霊に教えられる以外にないことを良く知っていました。

御霊に触れること、これが肝要です。

 

子どもが家に閉じこもっていた間も、幸いなことに学校の友達たちが私の家によく遊びに来てくれて、子供も友達たちと一緒に遊べることを楽しみにしていました。

 

わたしは、学校が平和な雰囲気に満たされていじめがなくなるように祈っていますが、

ふと、うちの子どもを通して、学校の子どもたちが私の家に集まってきてくれていることに気が付きました。この子たちにも造り主を覚えてほしいと願いました。

聖書の勉強という知識の世界ではなく、子供たちの霊において、

主イエス様の霊に触れてほしいと願います。

大人になったとき、あの家に入ると感じた雰囲気が彼らにとって善いものであり、それがキリストの香りであって、

いつの日か、自らこの香りを慕って、この香りの源であるイエスキリストにたどり着く道筋の始まりになってほしいと願います。

 

 

若き日に、造り主の霊を記憶すれば、いつかこの霊に再び巡り会った時には、

直にこの方の霊をおられる教会に、すなわちイエスキリストに立ち返ることができるのではないでしょうか。