それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。ルカ24章31節
主よ、私たちの心の目を開いて下さい
15節:イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
今までキリスト教となんの関係も無かった人が、
キリスト教に関心を持ち始め、教会で聖書を学び始めるとき、
まずつまずいてしまいやすい内容は、イエス様の処女降誕、十字架、復活、そして人の罪ではないでしょうか。
聖書の骨格とも言えるイエス様の生涯こそ一番中心でありながら、ひとには理解しにくい(信じにくい)事柄ではないかと思います。
けれども、イエス様はそのような私たちの信仰の乏しさ、無知を思いやることのできる御方ゆえに、私たちが分からないと苦闘している時から、イエス様はそばに近づいてきて下さり、一緒に道を歩き始めて下さっています。
27節:聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに解き明かされた。
彼らは、十字架の出来事を理解したいと思い論じ合っていましたが、生きておられるイエス様の臨在に気が付きませんでした。
彼らはイエス様の十字架の出来事の意味を知りたいと願っている求道者であると言えます。同時に、イエス様の弟子でありながら、イエス様の復活に未だ出会っていなかった弟子であります。
どのようにしたら復活したイエス様、生きておられるイエス様に出会えるのか。信じる事が出来るのでしょうか。
イエス様は弟子たちといっしょに道を歩き、彼らに寄り添っていたのは、彼らにご自身の存在を伝えたいからでした。私たちが理解できていないからといってイエス様がいないのではありません。
現に、イエス様の事を知りたいと願い聖書を読んでいる者たちのすぐそばにイエス様はおられます。
では、イエス様は、どのようにご自身の復活を伝えられたのでしょうか。
イエス様は、聖書を通してご自身の復活を伝えられます。
聖書を読み続ける事を通して、人はイエス様の復活に気が付くようになります。
そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。ローマ10章17節
イエス様はこの二人の弟子たちに、なにかしるしをもってご自身を明らかにすることもできました。しかし、そのようなことはせずに、根気よく彼らの疑問に付き合い、
みずから聖書を解き明かしながら彼らの心の目が開かれることを待ちました。
ルカが教会に伝えようと意図したことは、復活された(今、生きておられる)イエス様に出会いたいのなら聖書を読みなさい、ということではないでしょうか。
そのために、父なる神様は、聖書を教会に与えたのだからと、ルカは、ヨハネのようにダイレクトに『しかし、これらのことが書かれたのは、いえすが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである』ヨハネ20章31節
とは書きませんでしたが、
このエマオに向かう弟子たちの物語を通して同じことを伝えたかったような気がします。
2021年4月11日 茅ヶ崎集会 建徳要旨。