主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

自分の分を取って帰りなさい。ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。マタイ20章14節

永遠に変わらない神さまの愛を受けて働く ~主を喜ぶ心 ~

1デナリを通して神の恵みを理解する。

エス様は 例え話を通して、 天のみ国が どのようなものであるかを 私たちに 教えようとされました イエス様は ルカによる福音書 17章 21節の中で 『神の国は あなた方の ただ中に あるのです』と教えておられます 神様による支配が 信じる 私たちの 間で、また 信じる人の心と 生活の中で すでに始まっていると私たちは考えることができます。

ぶどう園を通して、 天のみ国を 教えようとされていますが 『 天のみ国は・・・主人のようなものです』とイエス様がおっしゃっていますので、主人がどのようなお方であるのかということに 心を留めることが 重要なことかと思います。

1 ブドウ園とは。ブドウ園は 収穫の時期に多くの労働者を必要とします 。ブドウは、神様の祝福を象徴します ヨシュアとカレブがカナンの地を視察に行った時に (民数記 13章23冊 、)祝福された地の証として ぶどうの房を担いできました 。

・ブドウ園は神様の祝福を表す神の支配するところであり

・ブドウ園は 救われた人間が 神の御前で生きる場所です

・ブドウ園は 神によって与えられる 働きの場である。 それは、神によって雇われた者a 招かれるところ 。それは、見出された者たちの この世における 生活の場である 。

Ⅱ〈葡萄園の主人 〉の 心を学ぶ

主人の心 。

  • 探し出そうと自ら 歩むよる神様の姿 。朝早く出かけた 自分の葡萄園に招き入れる労働者を 自ら 率先して 探しに出かけて待っている 。労働者を探し出そうと 自ら歩み寄る 神様の姿 。主人は 幾度も 広場へ 足を運んだことがわかる 。神様は常に 、誰に対しても 、自分の畑 、神のしもべとして 招いていることを 教える 。労働者には 何の資格もなしに 、ただ主人の 招きに 応じたものは すべて主人の ブドウ園で 働くことが 許された 。
  • ブドウ園に招いてくれる 神様

人は本来 、神の下で エデンの園を 管理するものとして 創られたが 、神の命令に 背いたために 、エデンの園から 追い出されてしまいました 。それゆえ もうひとたび 神の下で 働くためには、神によって もう一度 見つけだされ 、呼ばれ 、招かれねければならなくなったのです 。神は ご自分の葡萄園で もう一度 失われた人々 (何もすることもなく 立ち尽くしている人々 、目的を民衆になっている人日と )を雇い入れ ご自分の園に迎え入れようとしているお方なのである 。

  • 契約を結ばれる神様

20:10 「彼らもやはり一人市デナリであった」とは。

契約のしるし

1デナリは、一日の労働賃金に相当する額であった。これによって、家族が一日生きることができた。

主人は、労働者に対して、どれだけの時間と働きの多さの差によって、その報酬として1デナリを与えたのではない。1デナリを与えたのは主人の下で働いてくれた、しゅじんと僕という関係を結んだ保証、しるしとして与えたのである。つまり1デナリは、契約のしるしである。

恵みによる契約

神様の契約は変わらない。それは、イエス様の命の代価によって約束された血の契約。

つまり、神様は人間との関係、主人と労働者という関係を持つときに、命(神の恵みの賜物としての永遠の命)を約束として与えたのである。すなわち、神の招きを受けて、キリストを信じて、神との新しい関係に入れていただくのである。神との新しい関係に入れられた時に、神より恵みとして神の命を頂くのである。これは、神の恵みである。

  • 憐み深い神様

主人は、「最後の人にも、あなたと同じだけあげたい」という神様の心。

救われたクリスチャンの究極的な姿は、イエス様とともに十字架にかけられた犯罪人の一人ではないかと思います。

「そして、言った。イエス様、あなたの御国の位に御着きになるときには、私を思い出して下さい。イエスは、彼言われた。まことに、あなたに告げます。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」ルカ23章42節、43節

彼は人生の最後の最後にイエス様に見出されて天国に入ることが許されました。どれほど、彼は喜んだことでしょうか。

神様は最後まであきらめない御方であることを知ります。

 

「それとも、私が気前がいいので、あなたの目にはねたましく思われるのですか」

最後のものにまで憐みをかけられる神様、惜しみなく与えられる神様の姿を現しています。

  • すべての労働者に同じ報酬を与えられる神様

「9時、12時、3時、5時」

これはクリスチャンの様々な立場を表していると思われます。

・朝早く雇われた労働者:元気な者から、雇われていく。

・夕方になって雇われた労働者;誰も雇ってくれない。年寄、弱い者、役に立たない者は最後まで雇われないで、市場に残っている。働きのできなかった者たちです。

*世においては、能力のない者は働きの機会を与えられず、取り残されてしまうことが多い。無力感に自信を失ってしまいがち。しかし、神様は、たとえこの世において認められる能力のない者であっても、神のブドウ園に招いて下さる。そこには、神の畑で豊かな働きの場は備えられている。

 

1デナリとは。

ブドウ園の監督を通して労働者に与えられた1デナリがこのたとえを解くカギです。

1デナリは、労働の対価ではなかった。すべての者が1デナリをもらったということは、神の恵みの性質を表している。神より与えられる恵みは皆等しいのです。

その恵みとは、

  • 神が人を愛する心である。神様の愛の心は変わらない。すべての人に対して変わることはない。それは、熱心に働いたとか、長い時間働いたとか、苦労したとか、どれだけ大きな収穫を得たとかによって変わるものではない。神さまの愛する心は、人の働きの報酬でも対価でもなく、恵みであり、恩寵であり、無条件に与えられるものである。
  • エス様を信じる者に無条件に与えられる永遠の命である。

それは、はじめから約束されているものであり、(ブドウ園に行くときから、つまり、救われたときから、信仰生活を始めるときから)それはすべて信じる者に平等に与えられるものである。それは、信じるだけでよいのであり、若い時から主を信じた者にも、晩年になって主を信じた者にも、弱い者も、社会の落ちこぼれも、病気のものも、神様のために一見何の働きもできないものも、みな同じだけ与えられる。

 

「わたしは気前が良い」といわれる方、惜しみなく与えられる神様

20:15 「自分のものを自分の想うようにしては、いけないのか」

この御言葉は与え主が誰であるかを教えている

「人は天から与えられなければ、何も受け取ることはできない」ヨハネ3:27

とあるとおりである。恵みは、働きの報酬ではない。神の賜物であり、神の一方的な権能によって人に与えられる。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに対して十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」Ⅱコリント12章9節

 

まとめ

  • 主を喜ぶ心を忘れない。

自分の働きの大きさを誇るのではなく、雇って下さった神、契約を与えて下さった神様を喜ぶ。

労働者の中で一体誰が一番喜んだでしょうか。

それは、最後に雇われた労働者でしょう。もう、雇われない思っていたのに、主人に目を留めてもらった嬉しさ。最初の者と同じだけ賃金を渡してくれた主人の心の広さに感激したにちがいありません。

雇われた喜び(見出された喜び、招き入れてもらえた喜び)

労働者の最初の喜びは、賃金ではなかった。雇われたことが喜びであった。そして、その喜びによって彼らはブドウ園に生き、働き始めたのである。

・彼らはすでに最高のものを与えられているのである。最高のものとは、

主人の雇人になれたこと、つまり、神の子とされたこと、それも、無条件で雇われたこと(神の子とされた)ことである。神との出会いこそ、私たちの最高の喜びである。

  • 恵みの契約を忘れない。

自分の分を受け取って帰りなさい。20:14

人の働きの大小は神様の目からみれば小さいもの。

神様は、無限の愛を気前よく与えたいといつも願っている御方。

自分が何をしたか、どれだけ大きなことをしたかではなく、神の恵みを知り、恵みに目を留めていくと信仰生活が安定します。

私たちは、やがて何の働きもすることのできなくなる時が来ます。自分で自分の命も保つことのできなくなるときが来る。けれども、神様は元気に働けていたときも、元気に働けなくなった今も、全く同じようにしてあげたいと言って下さる。つまりあなたへの永遠の愛は変わらないと言って下さる。

私たちの存在は、この世の評価によって変わるようなものでなく、

この世の評価によらず、永遠に価値あるもの、神が独り子イエス様を与えて下さったほどに無限の愛をもって私たちを愛して下さっている。その愛を与えて下さっている神を喜ぶ心を忘れない。

 

自分の働きの大きさではなく、雇って下さった神、契約を与えてくれた神を喜ぶことを覚えて、新しい一日を歩んでまいりましょう。

 

2021.4月24日25日 片瀬山集会、茅ヶ崎集会