主に立ち返る。
心新しくして、あらためて主のいのちを選び取る。
今年の元日に生まれて初めて、初日の出を見に行きました。
こどもの初日ってどんなものか見てみたい!との声に押されて、
暖かい服と湯たんぽを抱えて、七里ガ浜の海岸に行きました。
そこにはすでに大勢の人が波打ち際に並んで初日を待っていました。
初日を見た後、多くの人たちはそのまま鶴ケ岡八幡宮のほうへ歩いていきました。
元日に願をかけるというか、初心を新たにしたいという日本人の宗教心を見る思いがしました。
私たちは新年最初の主日に何に願をかけるのでしょうか。私たちの初心はどこにあるのでしょうか。
イエス様は私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出して下さいました。ガラテヤ3:13。
私たちの目の前には、イエス様を信じて命と祝福を選ぶか、イエス様を信じないで死と災いを選ぶかの二つの道が示されています。
私たちを愛し造られた神様は命を選ぶようにと命じておられます。
私たちは律法を守り行うことによって神の前に義しいと認められるのではなく、イエスキリストを信じることによって神の前に義しいと認められる新しい恵みの世界にいます。
イエス様を信じる世界には祝福が伴います。
イエス様を信じる人びとに呪いは来ません。
イエス様が私たちの罪のためにすでにみそぎをしてくださったからです。
災いを取り除くためのお祓いも必要ありません。
イエス様が私たちのためにただ一度だけ、それも完全なお祓いをしてくださったからです。
2022年の最初の主日礼拝に心新しくして、イエス様を信じて生きる世界を選びたいと願います。
信仰を告白する。
神の言葉であるイエス様の救いは遠いところにあるのではなく、私たちの心で信じ、口でイエス様を告白するときに私たちに与えられます。(ローマ10:10)
心の中は神様しか知らず、その人が心で信じているかどうかは神様だけがご存じです。
心の中で信じていれば、神様の前には義とされています、ゆえに、その人の霊は天国に入ることができるでしょう。
ここで言う口で告白して救われるとは、世の人々と区別されるという意味です。
その人が自ら『私はイエスキリストを信じました』と人々の前で告白した時から、その人はクリスチャンなのだと人々は知ることになります。
これは、世に対して証人となったことを意味します。また、天使たちも喜びます。
証しをすることにより、世の人々と区別されたことがはっきりします。そして、神様は世の人々に対して証する人々を必要としています。
聖霊降臨以前、イエス様を心で信じてはいたが自ら口で信じていることを恐れていた弟子たちも、
彼らがユダヤ教の一派でなく、ユダヤ教とは別の道の者たちであることがユダヤ教の人々に明らかになってきました。
彼らが、信仰を告白しなければ、ユダヤ教徒たちとの軋轢は生まれなかったことでしょう。告白する、つまりイエス様の復活の証人となってからは新しい戦いが始まりました。
心で信じることにも信仰が必要ですが、口で告白するにはさらなる信仰が必要です。
私たちに敵対する悪魔は私たちが証人になることを恐れます。
それゆえ、ただ心の中で信じていれば神様がご存じだからそれでいいのではないかと偽りを教え、信仰を告白することに対して恐怖心を与えます。
証しをすることによって、悪魔に勝利することができます。
証し人となることを恐れてはなりません。
まことに、私たちの神、主は、私たちが呼ばわるとき、いつも、近くにおられる。
申命記4章7節
神の御言葉を口ずさみながら日々を過ごしてゆきたいと願います。