それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。 Ⅰペテロ2:9
兄弟姉妹と共に、礼拝を捧げるということ。ミニチャーチの始まり
イエス様は、失われた者を見つけ出し、救うためにこの世に来て下さいました。
イエス様は、たとえ、一人であっても、一人の罪赦された罪人が、主の救いに感激し、主を礼拝する時間を持つことを喜ばれることでしょう。もし、独りであっても礼拝を捧げることを主が喜ばれるとしたら、二人、また三人の少人数でも共に集って、主を礼拝する時間を持つことを同じように主は喜ばれることでしょう。
では、一人の罪赦された罪人が、主の救いに感激し、主のことを人々に伝えたいと願い、聖書を通してイエス様のことを伝えたとしたら、主は喜ばれるでしょうか?もちろん、イエス様は喜んで下さることでしょう。ただ喜ばれるだけでなく、より伝えられるようにと、助け主である聖霊まで送ってくださることでしょう。
さて、一人の罪赦された罪人が、主の救いに感激し、主の恵み、祝福を他の愛する家族や友人にも分かち合いたいと願い、愛する家族や友人を主イエス様の御名によって、祝福したとしたら、イエス様は喜んで下さるでしょうか?もちろん、主は、主の御名によって祝福する者を祝福し、さらに祝福を増し加えて下さることでしょう。
さて、一人の罪赦された罪人が、主の救いに感激し、主の十字架の御業を覚えたいと願い、一人パンを裂いて、
主を覚えたとしたら、イエス様はそのことを喜ばれるでしょうか?主は、喜んで下さると信じます。では、罪赦された罪人が、二人また三人と集まって、一人の時と同じように、主の十字架の御業を覚えたいと、パンを裂いて主を覚えたとしたら、主は喜ばれるでしょうか?私は、同じように、主は喜んで下さると私は信じます。
主に礼拝を捧げること、主を宣べ伝えること、主の祝福を与えること、主のパンを裂くこと、これらは、みな、一人の救われた罪人から始まることではないでしょうか。
一人の人の救われた喜びを言い表したいという内側から湧き出でる願いとそれを共にしたい、共に分かち合いたいという願いがあれば、ミニチャーチが始まります。
一人ひとりは、主の祭司としての立場を与えられていることを覚え、
兄弟姉妹が共に集まり、礼拝を捧げることがゆるされていることをもうひとたび確認します。