主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

Way Maker Yeram Worship


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コロナのパンデミックの最中、皆の心が恐怖に覆われて、お店も劇場もオリンピックもあらゆる催し物が中止になり、その波は教会の集会にも押し寄せてきた。

教会も世にならって

次々に閉じられていく中、主への信頼により頼んで、集会を止めたりしないで主に賛美を捧げ続けるために集まってくださったこの若い人たちを主は心にしっかりとお留になり、今大きく用いて下さっている。

この教会の皆さまに感謝します。

 

いつか子供たちをこの集会に連れて行ってあげたい。언젠가 아이들을 이 모임에 데려가고 싶어요.


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イエス様を慕い求める同じ世代の青年たちが大勢いることを子供たちにも伝えたい。

私の子供たちは、彼らから見れば周囲におじいさん、おばあさんしかいない教会から自然と足が遠のいてしまった。教会に行っても自分たちしかいないところに親としても無理に連れて行こうとは思わなかった。

若者たちがのびのびと恥ずかしがらずイエス様に賛美をささげている姿を見せてあげたい。同性代の間で若者同士の悩みや希望を分かち合える教会、若者同士の抱えている共通の悩みや不安を聖書を通して優しく解き明かしてくことのできる学びの空間と若い指導者のいる教会。同性代の若者たちが集まっていれば、安心して福音に心を開くこともできる。少し世代の上のお兄さん、お姉さんに導かれれば子供たちも素直に聖書の真理に心を開くこともできる。青年たちは大人以上にありのままの自分を愛してくれる神を求めている。恥ずかしがらず、人目を気にせず、心から賛美を捧げ、涙を流し、叫ぶことのできる集会へ。

余ったパン切れを集めなさい。ヨハネ6章12節

恵みのパンを拾い集める。

また、私の神は、キリスト・イエスの栄光のうちにあるご自分の豊かさに従って、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。ピリピ4章19節

 

ヨハネの福音書6章1節から15節

五つのパンと二匹の魚の奇跡の物語

1.イエス様は私たちの必要を満たすことのできる真の神である。

2.イエス様は人々にいのちのパンを(人の霊を満たすいのち)与える神であることの予表としての奇跡の物語

教訓

1.神の前に座するということ。

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせて下さいました。エペソ2章6節

イエスは山に登られた。そして腰を下ろされると、みもとに弟子たちが来た。マタイ5章1節

主は私の羊飼い、私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、詩編23編1,2節

イエス様のみそばに留まる事、腰を落ち着けて人の話を聞く。

座するということは主の祝福を満たしを受けるための心の姿勢。心の置き方。

2.恵みのパンを拾い集める。

神が成し遂げて下さった数々の恵みの御業を丁寧に拾い集め神が全能の神であることを心に刻みこむ。そして、次の壁にぶち当たる時、主の恵みの御業を思い起し、主への信頼を保ち続けるために。

 

序論

ヨハネはイエス様の歩みを記録すると同時に、イエス様はどんな御方であるのか、特にその霊的な真理を私たちに教えようと福音書を記しました。その中で『いのち』という言葉はヨハネ福音書にはあちらこちらに散りばめられています。

ヨハネの福音書の書かれた二つの大きな目的は

『1.これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため

2.また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである』ヨハネ20章31節でした。

本論

6章1節から15節  五つのパンと二匹の魚の奇跡の物語

 

イエス様はイエス様についてきた多くの群衆のすべてにパンと魚を与えるという奇跡を行いました。

これは、 イエス様が全能の神であることを示すこと。

イエス様は人の必要を満たすことのできる富をお持ちである事

肉体を養うパンではなく、人の霊に必要な命を与える、供給される神であることを予表する奇跡でした。

1.6章3節から9節 弟子を試されるイエス様

イエス様は弟子たちに何か大切な真理を教えようとするとき、弟子たちはイエス様の傍に来て座っていました。腰を下ろす、腰を落ち着かせる。腰を下ろして相手の話をじっくりと聞く。

群衆はまだ立っていた様子ですが、弟子たちはイエス様の傍に座っていました。自分の働きを止めて、いったんイエス様の御許で腰を下ろすということはイエス様の教えを聞く上で大切な心の姿勢です。

イエス様は大勢の群衆を前にして、彼らのお腹を満たすパンを与えるにはどうしたら良いか弟子に尋ねます。

イエス様の問い掛けは人には不可能であることを確認するための質問でした。

2.イエス様は時に私たちにはどのようにして解決したらよいか分からないような難題を私たちの前に置き、あなたならどうするか?と問いかけることがあるのではないでしょうか。

 私たちはその難題を前にして慌てふためきます。なぜならどのような方法をしても常識、世の基準では解決ができない難問だからです。

3.しかし、イエス様は自分が何をしようとしているのかを知っていました。

ご自分が何をしようとしているのか知っておられた。6:6

イエス様は先に何をしようとするのか知っておられたと言う御言葉を聞き、私は心に平安をいただきました。

この御言葉が指し示すことは、人生の難題に出会った時に、私たちはどうしたらよいか見当がつかなくてもイエス様はご自身の中にはすでにプランがあり、これから何をしようとしているかをご存じであるということです。

その信仰とは、イエス様はすべてをご存じの方である全知の神、そしてイエス様には私たちに教えようとしている神の計画、御心を持っておられる。 目の前に置かれた難題も偶然ではなく、行き当たりばったりの出来事ではなく、私たち信仰者がより豊かに神を知るための隠された意図があるに違いないと信じること。

難題に戸惑うのではなく、神への信頼へと置き換えていくことへの教訓ではないか。イエス様にはピリポほか弟子たちの信仰を成長させるための訓練の場を設けておられた。

4.イエス様がピリポに尋ねられたため、弟子たちはこの群衆にパンを与えるという難題を自分たちの知恵や努力で解決しなければならないと焦ってしまったのではないでしょうか。

自分の力、富によってしなければならないと神様を抜きにして目の前に置かれた大きな石を取り除けようとすることはむなしい努力、失望に終わってしまいます。

5.主のもとに持って行く。

ヨハネ福音書では9節でアンデレは『それが何なるでしょう』と何の解決にもならないとあきらめましたが、マタイ福音書14章18節ではイエス様は『それをここに持ってきなさい』と弟子たちに語りかけています。

自分たちだけでは解決不可能であるがゆえに、いまある課題を重荷をイエス様のもとに持って行くということをイエス様は弟子たちに求めておられる。

イエス様にとって彼らの手元にあるパンと魚がいくつであったとしてもイエス様には関係のないことであったでしょう。

イエス様がここで教えたかったことは、イエス様は神の子として無限の富をお持ちの方であり、無から有を生み出すことのできる神であることを彼らに示そうとされました。 私たちも重荷を自分で抱え込んで自分の力で解決しようと努力するうちに、にっちもさっちもいかなくなってしまうことはないでしょうか。

6.イエス様は群衆たちをも座らせた。天を仰いで静かに座して主のなされる御業を静かに待つ。

群衆は座して、イエス様がこれから為そうとしていることを静かに待ちました。群衆の目がイエス様に注がれます。

 

主は、わたしの主に言われた。「あなたは、わたしの右の座に着いていなさい」詩編110:1

わたしは山に向かって目を上げる。わたしの助けは主から来る。天地を造られた御方から。

クリスチャンとはイエス様と共に天上に座らせていただいた身分のある者です。

天にある霊のもろもろの祝福を受け継ぐ者とされた者です。

 神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、  エペソ1:3

神はまた、キリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。エペソ2:6

この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、

すべての支配、権威、権力、主権の上に、・・エペソ1:20

7.イエス様のなされた奇跡の恵みを放置してしまうのではなく、忘れ去ってしまうのではなく、去ってしまうのではなく、一つ一つを拾い上げて神への信仰の記憶として心にとどめておくこと。

この時、確かにイエス様が働いて下さって不可能なことを可能にして下さった。あの時、イエス様は、  あの時もまたイエス様は。。

ダビデは羊飼いをしている間、羊を獣から守りましたが、その都度その危機を脱出することができたのは神の力であることを覚え、記憶にとどめて行きました。

ですから、ダビデはゴリアテという巨人を前にしても、

かつての神が奇跡によって助けて下さった記憶を思い起し、ゴリアテの前でも神への信仰によって立ち向かうことができました。

主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。

                            第一サムエル3:19

そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。                     イザヤ55:11

8.主の奇跡から学ぶ

まだ分からないのですか。五つのパンを5千人に分けて何かご集めたか、覚えていないのですか マタイ16章9節

彼らが湖に舟をこぎ出す直前になされた五つのパンと2匹の魚の奇跡を目の当たりにしたにも関わらず、イエス様が全能の神であるという恵みのパンを拾っていなかったということではないでしょうか。

あの時、イエス様が奇跡によって助けて下さったのだから今回の難題もイエス様が助けて下さるに違いないとイエス様に信頼を置いて座して主の救いを待つということをまた心に覚えていきたいと祈ります。

まとめ

イエス様は命のパンであり神の言です。この言の中に命があります。この言を信仰によって心に受け入れる者には神のいのちが宿ります。その命は永遠に続きます。

今日も弟子たちの手を通して全世界に23億人以上の人々に命のパンである神の言が宣べ伝えられ、分かち合われ、神の言を食する人々に神のいのちが分け与えられています。

この神の言に命があり、この神の言は人に神のいのちを与えるのです。

ハレルヤ!今日も全世界で、今日全世界で開かれている礼拝においていのちのパンである神の言が教会を通して、すなわちイエス様の弟子たちを通して配られ続けています。

この五つのパンと二匹の魚の奇跡は今日もなお続いているのです。ハレルヤ!

2026.7.25 片瀬山集会 

2026.7.26   茅ケ崎集会

2026.8.9 SCC

                                                                                                                             

『完了した』と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。ヨハネ19章30節

『完了した』と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになった。ヨハネ19章30節

 

1.あらすじ 

十字架上で6番目のお言葉

イエス様は木曜日の晩に2階の広間で弟子たちと最後の食事を共にした。

そこで、イエス様はパンと杯をとり、このパンと杯は十字架の上で流す血であり、十字架の上で引き裂かれる私の肉であることを弟子たちに告げ、イエス様が復活されその姿が見えなくなっても、主の十字架の犠牲を覚えるためにこの儀式を続けるように言われた。

その後、ゲッセマネの園で一人祈っていたイエス様であるが、群衆と兵隊に自ら身を委ね、木曜日の夜から金曜日の朝にかけて、裁判にかけられ、金曜日の昼間には十字架刑に処せられた。

イエス様は十字架の上で息を引き取られる直前に『完了した』と声を発せられた。その声をヨハネは聞いていたのであった。

2.『完了した』言われたイエス様の心

罪の贖いの御業がイエス様という一人の罪なき人、救い主自らの犠牲によって、完全に成し遂げられたという罪に対する勝利の宣言を発せられた後、イエス様はご自身の霊を神に引き渡された。

ゲッセマネの園からゴルゴダの丘に至る、このわずか木曜日のから金曜日の夕方、までの間に闇の力、サタンの怒りがイエス様を取り巻いていた。十字架において、息を引き取る直前にイエス様が『成し遂げられた』と言葉を発せられたことは、イエス様が何も成し遂げず、十字架でただ殺されてしまったのではないことを証ししている。

このお言葉が無ければそれはサタンの悪だくみに勝利であったかもしれない。そして悪魔はその時を秒読みで待っていたに違いない。しかし、命を引き渡す直前にイエス様は救いの御業を成し遂げられたことを公に宣言したのである。

 イエス様の発せられた『完了した』というお言葉は、十字架の上で発せられた6番目のお言葉である。5つまでのお言葉はそれぞれ人の立場を代表するとりなしのお言葉と言ってもいいと思います。

この6番目のお言葉には、イエス様ご自身がこの地上生涯に託された神の御心をすべて成し遂げることのできたことへの達成感、満足感、父なる神への感謝の想いが満ち溢れているようにも聞こえます。あらゆる試練、困難、誘惑、そのすべてを耐え忍びながら父なる神の御心に従い切ることのできた喜びの叫びのようにも聞こえます。

このお言葉の後、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)と7つ目の最後のお言葉を発せられ、息を引き取られました。

3.イエス様に倣う伝道者たち

パウロはテモテ第二4章6節から8節にかけて、

『私は勇敢に戦い抜き、足るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

あとは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。その日には、正しいさばき主である主が、それを私に授けて下さいます。私だけでなく、主の現われを慕い求めている人には、だれにでも授けてくださるのです』

殉教する直前に自身の伝道者としての歩みを振り返りつつ、パウロは前を向き、神からの賞与に目を向けました。これは今の苦しみは後に与えられる栄光に比べればとるにたらない、主はもっと良いものを私に与えてくれるということを信じ、期待していたパウロの信仰告白でした。今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足りないと私は考えます。 ローマ人への手紙8章18節。

ヨセフは創世記50章24、25節で『私はまもなく死にます。しかし、神はかならずあなたがたを顧みて、・・・『神は必ずあなたがたを顧みて下さいます。』と臨終のときにイスラエルの子らに語りました。

激動の生涯を送ったヨセフですが、ヨセフは神の御手の中で守られてその生涯を歩んだことを覚え、すべてが神の御手によって成し遂げらたという安心感に包まれていました。そして、神は必ず顧みて下さると必ず良い地に導いて下さることを信じて、ヨセフも将来に希望を抱いて命を神に委ねたのです。ヨセフの心には成し遂げられた、完了したという喜びが満ち溢れていたのではないでしょうか。

モーセは申命記34章1節から4節にて、神はモーセに

『わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに”あなたがたの子孫に与える”と誓った地はこれである。”』と言われました。

モーセは約束の地に自らが入れなかったことを悔やんだでしょうか?

わたしはそうは思いません。

モーセも自分に与えられた激動の生涯を顧みながら、神がすべてを守り導いて下さったという確信、感謝とともに、私は神の御心に中に生涯を歩み通すことが出来た『完了した、成し遂げられた』という喜びがあったのではないでしょうか。モーセは約束の地を目の前にしながら、イスラエルの子らがこの地に登ることができるという神の約束を喜びながら命を神委ねたに違いありません。

4.主にあって、我が人生に後悔なし

私たちも生涯の終わりには自分の人生に与えられた神の計画はすべて成就したということが出来ます。私一人ですべてを成し遂げたわけではないが、しかし、私自身に与えられた神の計画はすべて成就したと主に報告することができます。

なぜならば、イエス様が罪の贖いの御業のすべてを成し遂げて『完了した』と言われたからです。神の計画は過去においても現在においても未来においてもすべてイエス様の十字架の死と復活において完了したのです。神様がイエス様においてやり忘れてしまったことなど何一つないのです。

イエス様を信じるものの歩みはすでにイエス様の御手の中にあります。

私たちはその幾分かを受け取って、小さな務めを任されています。しかし、

そのことにおいて十分なのです。委ねられた家族、委ねられた仕事、委ねられた宣教の働きその小さな働きの中に私の果たすべき分はすべて成し遂げられるのです。

主にあって、我が人生に後悔なしと言えるのがクリスチャン人生ではないでしょうか。

5.イエス様は悪魔に対する勝利宣言を成し終えた。

『完了した』という主の言葉は言い換えれば、『私はすでに世に勝った』というイエス様の悪魔に対する勝利宣言である。ヨハネ16章33節

イエス様は悪魔に対する勝利宣言を成し終えてから、安心して父なる神にご自身の霊をお渡しになったのである。


イエス様の十字架の上での最後の言葉『完了した』という声を私たちが聴くとき、私たちは何を信じられるようになるのでしょうか。

イエス様についてきた女性たちは、目の前でこの世の不条理を目の当たりに嘆き悲しんでいます。私たちに良いことだけをして下さったこの優しいイエス様が無実の罪で殺されようとしている。しかし、何をして差し上げることもできない。そんな失望と落胆も入り混じる気持ちもあったことでしょう。イエス様が十字架上で受けている痛みと苦しみが彼女の心にも伝わり、彼らの心も張り裂けんばかりです。

どのようにしたら、そしていつ、私の抱えているこの世の悩みは過ぎ去るのだろうかといつになったらともう背負いきれない重荷に耐えかねている人もいるかもしれない。

しかし、イエス様が『成し遂げられた』のはあなたの抱えている罪による苦しみを根本から解決して下さったという勝利の宣言です。イエス様が罪の赦しの御業をご自分の命を父なる神に捧げることによって、成し遂げられたのです。

私はすでに世に勝っているというイエス様の勝利の言葉をしっかりと心の中に受け止め、まだ自分の目には先が見えていなくても、イエス様はすでにその先においてあなたの抱えている罪の問題に解決済みの証印を押して下さっているのだ。と信じることです。イエス様はすでに問題を解決済みなので、必ずあなたの歩む先に新しい一歩を、

新しい一筋の光を示して下さるに違いありません。

 

所感

私は今回、家庭に大きな問題を抱えて、罪の嵐の中、主の家という主の血潮によって覆われた隠れ家の中に潜み、災いが過ぎこしていく日を静かに待ち続けていた。受難節からイースターに向けて、海老名シオンの丘教会の玉井牧師より、メッセージ集をいただき、40日間、毎日与えられた御言葉を黙想しながら祈りの時を過ごさせていただいた。

そのメッセージから私は主の慰め励まし、希望と力をいただきながら苦難の時を過ごしてきた。そして、大切な決断を迫られるその日の朝に、イエス様より、『休みなさい』とのお言葉をいただいた。

私は自分のプランの中では、思いも浮かばなかった導きであったが、、主の言葉に聴いて、休むことができた。その時、主の御前で休むとともに、私の目の前に置かれたタスクも放棄し、主の安らぎの御手のうちに身を委ねた。

その時、私は再び、主の語りかけを聞いた。そのお言葉が『成し遂げられた』(完了した)という十字架の上でイエス様が話された最後の言葉であった。それはちょうどイースターの前日であった。イースターに向かう前の日に『成し遂げられた』という主の言葉をいただき、大きな平安を心に抱くことが出来た。

 この『完了した』というお言葉を聞いた時、私を取り囲んでいた暗雲が一気に吹き飛ばされ、空には太陽の光が広がった。そうだ、私がこの40日間先が見えない暗闇の中で葛藤してきた罪に問題は、イエス様の贖いによって完了済となったのだ、もう解決済みになっているのだと知った。イエス様がご自身の身にすべての人の罪を背負われて、ご自分のの命の代価を支払って、私たちの罪と交換して下さった。

 成し遂げられたという主の言葉を聞いたが、大きな問題が完全に片付いたというわけではない。いまだにその問題は続いている。しかし、主の声を聞いたことにより、私の中にイエス様が私たちの罪によって引き起こされたこの問題は、すでに将来において、解決は済んだと宣言して下さったことを信仰によって受け止めることができたのです。

そして、教えられたことは、この完了したという御言葉は、私が今抱えている具体的な、現実的なこの問題を引き起こした罪に対する贖いがイエス様の十字架の命の犠牲によって、成し遂げられたゆえに、代わりに私の心には平安が与えられた ということであった。

その声とイエス様による『終了、解決済み、完了した、成し遂げられた』という信仰の宣言によって、私は、今まで心に重くのしかかっていた重荷から解放されたのである。

この世のものとは異なる神の平安が与えられた。イエス様はすでに世に勝ったのである。私の心には、『シャローム』が宿った。

 

2026.6.20 片瀬山集会

 

 

イエスが、『わたしにそれができると信じるのか』マタイ9章28節

イエスが、『わたしにそれができると信じるのか』と言われると、彼らは『はい、主よ』と言った。

そこでイエスは彼らの目にさわって、 『あなたがたの信仰のとおりになれ』と言われた。

                        マタイの福音書9章27節から31節

あらすじ。

イエス様の宣教が始まり、イエス様の歩く先々で神の御業が現れ、人々はイエス様の宣教のはたらきに驚き、行く先々の地方において、イエス様の評判は地方全体にひろまっていた。

人々は、ダビデの子よと叫び、イエス様を待望のメシヤではないかと期待して自分たちの悩み、惨状を訴え、その憐れみに与っていた。

イエス様が家に入る時、イエス様に憐れみを乞うてついてきた二人の盲人を見て、

『私にそれができると信じるか』と尋ねた。すると彼らは『はい、主よ』と言った。

所感:

イエス様のよびかけのシンプルさと彼らの応答のシンプルさに平安を覚えました。

イエス様は他の場面の時のように、私に何をしてほしいのか?と尋ねることもなく、彼らもみもとに近づいてから、自分らの状況を詳しく説明もしていません。

『わたしにできると信じるか?』(新共同訳)という呼びかけにただ『はい、主よ』と直ちに応答しました。

 

27節:

目の見えない二人の人、;目の見えないということは、暗闇の世界を歩いていたということ、自分が今、どんな環境の中に置かれているのか、周囲がどうなっているのかないも自分の目で確認することもできない状況の中にいたということです。

暗闇の中を歩くということがどれだけ心細いことであるかと思います。右に行けばいいのか左にいけばいいのか、自分で判断できない状況が毎日、続いていたと思うと、その苦労はいかばかりかと思います。

叫びながら;周囲の人々はイエス様の歩く姿が見えていますが、彼らにはだれがイエス様であるかを見分けることはできません。助けの者に手をつないでもらいながらイエス様の後を追い、ダビデの子よ、とイエス様が救い主であることに期待をかけながら、自分たちの存在に気が付いてもらおうと叫び続けていたに違いありません。

28節

イエスが家に入られると

イエス様は群衆の中でではなく、個人的な交わりのできる家の中に入ってからそして、彼らが御許に近づいてから声を掛けて下さいました。

イエス様は道を歩きながらではなく、静かな環境の中で私たちに向かい合いながら声を掛ける時を用意していたのではないでしょうか。家というのは、主と一対一で交わるのに用意された場所です。イチジクくわの木の上でイエス様を眺めていたザアカイにイエス様は今日、あなたの家に泊まることにしているからと呼びかけ、イエス様はザアカイの家で群衆に邪魔されることもなく、イエス様のお話をじっくりと聞いて、救いを得ました。家とは教会でもあります。主の家が教会です。教会にはイエス様がおられ、私たちを待っていて下さり、私たちの悩みを打ち明け、イエス様からの救いの言葉を聞くことのできるみんなの居場所です。

御許に来た;

私たちも、暗闇と絶望の中に激しい嵐のただなかにいようとも、主と共に主に家に入り、静かに主の御前にたたずむ時を持たせていただきたいと願います。

わたしにそれができると信じるか;わたしは、ちょうど1週間前にこの聖書の御言葉に出会い、非常に大きな励ましを受け続けています。

なぜなら、私も今、この盲人と同じように、自分の前に置かれた状況が見えず、どちらに進んでいったらよいのか分からず、暗闇の中を手探りで歩んでいるような状況の中にあるからです。なにかこの困難とこの障壁をどのように動かすことができるのか、いまさら、目を開けて下さいと主に訴えることでこの困難が解決されるのだろうか?と主の前にこれが困難、障壁の原因なのでこれを取り除けて下さいと言うことができないような迷いの中にいます。

彼らのように、主に憐れんで下さいと叫び求めながらついていくが、では一体、主に何をしてほしいと自分でも明確化できないような暗雲の中に迷い込んでいるような状況です。

彼らも目が見えるようになりたという願いは常に心に秘めていたと思いますが、

自分からそのことを主に伝えることが最善なことであるのか、自信を持つことができないでいる。そういう彼らの心の中の葛藤を見る気がするんです。

イエス様は彼らに『何をしてほしいのか』と尋ねませんでした。

彼らの今までの過去は目が見えないという不遇な環境もあるけれども、その一つだけのことではなく、今まで歩んできた彼らの人生ががんじがらめに絡まってしまい、どこからその絡まった糸をほぐしたらよいのか、その結び目さえも分からなくなってしまった状況なのではないでしょうか。

そのような中で、イエス様は彼らの今までの歩みと悩みと置かれた環境をすべてご存じの上で、

『わたしにそれができると信じるのか』と尋ねて下さったのです。

あなたは私の存在にあなたの抱えている問題を委ねるのか?そして『わたしにそれができると信じるのか』と向かい合って、呼びかけて下さったのです。

 

と言われると; 

おそらく、そのような葛藤を抱えつつ主について行こうとした彼らにイエス様の方から呼びかけて下さいました。

わたしは、このイエス様の呼びかけに今回、強く支えられています。

わたしもこのふたりの盲人のように、叫びながらイエス様について行きました。

この叫びも言わば、呻きの祈りといってもいいと思います。イエス様を追いかけるかのように、なにか自分から追いすがるようにイエス様の後ろすがたを求めながら、叫びながらついて行きました。

しかし、この28節になって、何が今までと違うかと言いますと、イエス様が立ち止まって下さり、そして振り向いて下さり、そして、今まで叫び求めてきた祈りに、

主が向かい合って下さったという安心感、喜びがここにあるのです。

どのような風に道が開かれるのか、暗闇から光の世界が開かれるのか、自分には分からないけれども、そのことが出来る方はイエス様しかおられません。というのが私の確信です。

『はい、主よ』イエス様の呼びかけを聞いて彼らの反応がどうであったでしょうか?

『わたしのこの葛藤を解決できる方はあなたしかいない。全世界のどんな人であってもだれも解決することはできない。しかし、あなただけは、全宇宙でただ唯一あなただけが私の葛藤を悩みを障壁を取りのぞき、暗闇から光の中へ、希望の世界に導いて下さる救い主ですと心の中で答えたのではないでしょうか。

その答えが『はい、主よ』と一言でした。

私は、イエス様に具体的に何をしてほしいのかを伝えることも大変大切な信仰の在り方だと思います。一体、私は主に何をしてほしいのか?自分の願いを自分で探っていく、そして私がほんとに主にしていただきたいことはこれであったと改めて気が付くということも多くあります。

ただ、今日のテキストのように、何をどうしてほしいかを主に尋ねられることもなく、

主より、『私にそれができると信じるのか』と尋ねられた時に、

主が何をして下さるのか、どうような結果に導かれるのかも明確には分からないままに主にお委ねして、『はい、主よ』と応答できる信仰の在り方も非常に大切なことではないかと思います。

 

『わたしにそのことができると信じるのか?』と呼びかけて下さった時、『あなたを置いて、他のだれにそのことができるでしょうか。全宇宙に中でそのことが出来るのはあなただけです。とアーメン、アーメンと繰り返すしか私の返答はなかった。

主よ、あなたをおいて一体だれのところに行きましょうか?

29節

イエスは彼らの目にさわって;

イエス様は憐れみ深く、真実で正しいお方です。知恵に満ち、主にできないことは何一つない無から有を生み出すことのできるまことの神です。

イエス様はかれらのもっとも痛んでいるところに触れて下さいました。イエス様は彼らが目を病んでいることは十分ご存じでした。イエス様はその人の痛みにそっと触れて下さる、そして癒して下さる救い主なのです。イエス様は私たちの痛みの根本に触れて下さり、イエス様にならできると信じたその信仰に応えて下さいます。イエス様は、主に叫び求める私たちを決して失望に終わらせることはなさいません。

どんな暗闇の中にいても、必ず希望につながる光を与えて下さいます。

彼らはイエス様によって見えるようになりました。

彼らは今までとは違う新しい世界が始まりました。主は私の目を開けて下さり、私の救いとなってくださったという確かな方に支えられt、前に向かって歩む人生を与えられたのです。暗闇から光の中に生きるものに変えられました。それは、全能なる神、救い主なる神に直接出会えたからでした。

私たちはイエス様が彼らに与えて下さった力ある神の御業も合わせて信じたいと思います。

2026年5月23日 片瀬山集会,

2026年5月24日 茅ケ崎集会

 

ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。すると、イエスが来て彼らの真ん中に立ち、こう言われた。『平安があなたがたにあるように』ヨハネ20章19節

そういうわけで、子たちがみな血と肉を持っているので、イエスもまた同じように、それらのものをお持ちになりました。

それは、死の力を持つ者、すなわち、悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれている人々を解放するためでした。

                       へブル人への手紙2章14、15節

 

1.死の力とは何であろうか

2.イエス様の復活は死の力を打ち破られた

3.閉ざされた心の中にも自ら入ってこられる神。

4.私たちは死の恐怖の奴隷から解放された。

1.死の力とは何であろうか

死という現象は、私たちは身近な人の死を通して、幾分イメージが付きます。しかし、へブル人2章にある死の力を持つ者、すなわち悪魔が持つ死の力とはなんでしょうか。

ヨハネ20章19節

弟子たちがいたところでは、ユダヤ人を恐れて戸に鍵がかけられていた。

イエス様がよみがえられた日曜日の夕方であった。

木曜日には一緒に食事をしたイエス様が、金曜日にはイエス様がむち打たれ、血だらけになりながら十字架の横木を背負いゴルゴダの丘を登っていく姿を見た。そして、十字架に釘付けにされて渇きと苦しみの中で息を引き取る姿を目の当たりにした。

十字架につけられたイエス様を目にした弟子たちは血の気の引くような恐れを体中で味合わされた。その悲惨さに、心が凍り付いた。国家権力の恐ろしさを目の当たりにした。

私は鍵が閉められた部屋の中は、重い重い空気に満たされていたと想像します。

お互いに声もかけられないほどの空気の重さに圧倒され、自分たちに迫りくる捕縛の恐怖で身動きができず、心が凍り付いていたと想像します。

死に対する恐れ、これが死の力であり、悪魔が死に対する恐れによって人々を自分に従うようにと操ってきたのです。

 

私も最近の身近な出来事の中に、死の力を感じざる負えないような心の暗闇、心の重荷を体験してきました。死の力が私を取り囲むのは決して心地よいものではなく、こころが沈み込み、心が圧迫され、重苦しく、心が凍り付くようなものである。

死には虚しさがあります。

この虚しさの前で人は生きる気力を奪われます。

暗闇の中で光が見えない、身動きが取れない、溺れてしまいそうな恐怖、そのような力に飲み込まれそうになる。そのような力のことを言うのではないかと思う。悪魔はまさにこのような力を駆使して、人を死の恐怖によって支配しようとしてきたのです。

2.イエス様の復活は死の力を打ち破られた

しかし、同時に

イエス様の復活が死の力を打ち破る力であることを幾度も再確認させられています。

イエス様は十字架にかけられ確かに死に、葬られましたが、三日目に死人の中より復活の体をもってよみがえられ弟子たちに現れて下さいました。

イエス様が復活されたことにより、イエス様は死の力を打ち破られました。そして、死は終わりではなくなりました。

 

へブル人への手紙2章15節には、『死の恐怖によって一生涯奴隷としてつながれている人々を解放するためでした。』とあります。

イエス様が十字架の上で死なれたのは、死の力を持つ者である悪魔をご自分の死によって滅ぼすためでした。悪魔はイエス様を十字架の上で死なせたとほくそ笑んでいましたが、実はイエス様は十字架の上で死なれた時にご自分の死の中に(悪魔を閉じ込め)、ご自分の死によって悪魔を滅ぼされました。

へブル書にあるとおり、イエス様は死の恐怖の奴隷となっている人々を解放させるためにこの世に来て下さった救い主です。

イエス様の復活により私たちはすでに死の恐怖の奴隷から解放されたのです。

この事実により、私たちの心が、重い空気に支配され、凍り付くような恐怖心に襲われることがあっても、”主は死よりよみがえられた、主の復活の力が私のうちにも働かれることを信じると告白していくとき、確かに、主の復活の力は私たちの魂のうちにも働き、確かに私を取り囲んでいた死の力から私たちの魂を解放して下さるのです。

死はイエス様を支配することはできなかった。

死はイエス様を黄泉に閉じ込めておくことはできなかった。

死からよみがえられたイエス様は弟子たちを死の恐怖の奴隷から解放し、彼らの心を喜びと希望に生きる新しい命に満たして下さったのです。

3.閉ざされた心の中にも自ら入ってこられる神。

私たちは救いの招きのときに、自ら心を開いてイエス様を心の中に迎え入れて下さいと御勧めをします。

確かに、自らイエス様の前に自分の心を開くことは大切な真理です。

しかし、イエス様は私たちの心の弱さをよくご存じです。今までに受けてきた大きな心の傷によって、これ以上絶対に傷つけられたくないと自ら固く心を閉じている方も多いのではないかと思います。私たちは自分からいつも心を開けるほどおおらかではないのです。狭い心の持ち主です。

主はそのような心に陥っていた弟子たちをよくご存じでした。

今日の御言葉は、そのような弟子たちのところにイエス様自らが入ってきて下さる救い主であることを私たちに教えています。

ご自身から”固く閉ざされた私たちの心の中にイエス様は入ってこられ、”もう大丈夫だ。私はあなたを購った。私は生きている。私は死からよみがえった。あなたの死の問題は解決した。私の元に来なさい。私に触れてみなさいと呼びかけて下さる。そして、平安あれと固く閉ざされた心の内側において主ご自身が宣言してくださるのです。

主は私たちの心の頑なさをよくご存じです。ですから、私たちの萎えた信仰が回復するようにと幾度でも私たちの心の中に入ってきて下さり”私だ。安心しなさい。私はあなたを購った。私はあなたを捨てて孤児とはしない。私は世の終わりまであなたと共にいる”と呼びかけて下さる救い主なのです。

4.私たちは死の恐怖の奴隷から解放された。

イエス様は戸に鍵をかけて固く心を閉ざしていた弟子たちにご自身の傷跡を見せたのちに、彼らの真ん中に立ち、『平安があなたがたにあるように』と優しく、そして権威をもって呼びかけました。

弟子たちがよみがえられたイエス様の手足の傷跡を見て、イエス様が生きておられることを再び確信し、彼らの心は喜びに満たされました。

教会とはこのような所であるかと思います。

私たちが世の力に圧倒され、死の恐れに圧倒されてしまっている時にも、

教会に集められた私たちの真ん中にイエス様は立って下さり『平安があなたがたにありますように』と今日も呼びかけて下さっている。

教会の礼拝において、イエス様の十字架の苦しみとイエス様の復活の事実を覚えて、新しい喜びに新しい平安に包まれていくそのような所が主の家であり、主の教会なのではないでしょうか。

復活されたイエス様を見上げましょう。死からよみがえり、死に勝利されたイエス様を見てゆきましょう。

心の中でイエス様はよみがえられた。イエス様は死を打ち破られた。イエス様は死に勝利を治められたと宣言してみて下さい。イエス様の復活を信じることによって、私たちは死の恐れから解放されます。

暗闇が心に迫る時にも、主は私の心の中に入ってこられ、この暗闇の力、死の力を追い出して下さいます。イエス様は私たちの心の中に神の平和を与えて下さいます。

よみがえられ今も生きているイエス様に心を向けてまいりましょう。

 

祈り:過去に受けた心の傷によって心を開けられなくなってしまった友がいます。

主よ、あの日のようにどうか主自らが友の心の中に入ってくださり、平安を告げ知らせ、再び歩みだすことができるように助けて下さい。

 

2026.4.25 片瀬山集会

2026.4.26 茅ケ崎集会

2026.5.31 湘南コミュニティーチャーチ

 

 

 

 

 

花婿を出迎える十人の娘 マタイ25章1節から13節

主を待ち望む信仰について

1.

イザヤ書40章 

疲れた者に力を与える神

主の力を待ち望む信仰

2.詩編27篇

敵に取り囲まれた中で平安を与えられる神

主の助け、平安を待ち望む信仰

3.マタイ25章

主の再臨を待ち望む信仰。

1.主を迎えるための準備 1節から13節

2.迎えに来られるまでの生活、神の報い。任された小さな賜物に忠実であれ。14節から30節

 

1.御国の婚礼の祝宴に招かれるため(救われるため)に必要な準備についてのたとえである。

主を待ち望むということは、主に何かを期待している心の状態です。ぼーっと過ごしているのではなく、主人に望みを抱いて待っている、つまり、心はすでに主に向いています。

10人の花嫁は何を待ち望んでいたのでしょうか?

それは、花婿が迎えに来てくれる時を待ち望んでいました。

ここからたとえ話が始まります。

このたとえは、天の御国を待ち望む信仰者はどのような心持で、どのような準備をして待っていればいいのかを賢い乙女と愚かな乙女にたとえながら教えています。

そのことをともしびとともしびを輝かす油を通して読者に分かりやすくイエス様は伝えています。

①愚かさと賢さの違い。3,4節

愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

賢い娘たちは、ともしびと一緒に入れ物に油を入れてもっていた。

この状況自体はイエス様の話を当時の聞いた人たちはすぐに理解できるものでした。

当時、暗闇を照らす光と言えば、ともしびしかなかったからです。

私たちも状況は理解できます。

なにが愚かであったかというと、

彼女たちは花婿の迎えを待っていて、花婿が迎えに来たら一緒に婚礼の祝宴に行く予定であったわけです。

ところが、花婿が来るのが遅れて、待ってはいるのですが、

うとうとと眠りはじめてしまい、夜中になって花婿が迎えに来た時には、愚かな娘たちの油は切れかかってしまったということです。

賢い娘たちは何が賢かったかというと、

予備の油を入れ物に入れてもっていたので、花婿が迎えに来た時にも油がと切れることなく、一緒に花婿と婚礼の祝宴に向かうことができたということです。

つまり、予備の油を用意しておいたか否かが賢さと愚かさを分けたわけです。

ここまでの話は私たちも良く分かります。同意できます。

何をイエス様は伝えているのか?このたとえ話でイエス様が伝えたかったことを悟ることが大切なわけです。

2.たとえの意味。

ともしびとは律法です。

油は聖霊です。

花婿とはイエス様です。

迎えに来るとはイエス様の再臨です。

婚礼の祝宴とは天の御国での祝宴です。

愚かな娘のたとえは、律法の行いによって神の国に入ろうとする人々のことであり、

言い換えれば人の正しさによって神の国に入ろうとする者です。

しかし、予備の油を持っていなかった娘たちは、花婿が迎えにくる頃には、油が切れてしまい、ともしびも消えかかってしまったのです。

賢い娘のたとえは、イエス様を信じて、心の中に聖霊の油が注がれている人々です。聖霊は油とたとえられることがあります。イエス様を信じるとき、心の中に聖霊が住まわれます。そして、私たちの心の中から決して離れることはありません。

心とは油を入れる入れ物のことです。

つまり、人が天の御国の祝宴に入るには、律法の行いによるのではなく、ただただイエス様を救い主と信じて、恵みによって救われて、こころの中に聖霊を宿すことが条件なのです。賢い娘らは聖霊という油をあらかじめ用意して花婿なるイエス様を待っていたのです。

③救いは個人的な業。他人の救いに与ることはできない。

9節『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。』

天の御国は一人一人が個人的にイエス様を信じて、心の中に聖霊の証印を押されなければなりません。救いは個人的、個別的です。ですから、どうかこのたとえ話を今日聞いたならば、ただ聞くだけでなく、イエス様を私の個人の救い主として信じていただきたい。信じるだけでいいのです。イエス様は私の救い主になってください。イエス様が救い主であることを信じます。とイエス様に告白すればいいのです。

そうすれば救われます。

たとえにあるように、イエス様がいつ迎えに来られるかわかりません。私たちがちょうどうとうととしている最中に来るとイエス様はたとえで語られました。ですから、

再臨はまだ先だ、もう少し人生を楽しんでから、信仰告白をして洗礼を受けよう、反対する両親がいなくなってから受けよう、などと先延ばししてはいけないのです。

12節『私はあなたがたを知りません』

イエス様が空中にまで雲に乗って降りてこられる日には、聖霊の油を持っている者と持っていない者とは明確に区別されます。どんなに自分は良い人間だと自負していたとしても、聖霊の油をいただいていなければイエス様の婚礼には招かれないのです。

救いは恵みですが、救いの恵みは主が再び来られる日までです。イエス様が来られてからでは間に合わないのです。そのことをたとえは教えています。

そのことをしっかりと心に留めて、私はどうしたらよいかを考えていきましょう。

2026.2.28 片瀬山集会

2026.3.15 茅ケ崎集会