主イエス・キリスト・御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。民数記21章9節

十字架にかけられたイエス様の予表としての青銅の蛇    

モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子もまたあげられなければなりません。ヨハネ3章14節

6節:罪の報酬は死であると聖書は言っています。私たち罪人は、肉体の中にある罪ゆえに滅びに定められています。

彼らは、人ひとりの神に対する不信仰により、彼らは蛇の毒によって死ぬことが定まってしまった。蛇はサタンを意味し、蛇に噛まれるとはサタンの武器である死を受ける事を意味する。

神を信じないことは罪であり、罪の報酬は死であり、滅びの道に向かうことを表している。

 

7節:人は、自ら義となり、聖となって救われることはできません。

彼らは救われるために蛇を取り去るという方法をモーセに願いました。

これは、人の中から罪を取り除くことにより生きる事ができると考えた人の知恵です。

しかし、人は生まれながらの罪人であり、この肉体の中にある罪を罪だけ取り除くことはできません。人は清くなって救われるのではない、きよくなって死を免れるのではない。義しい人は一人もいないのであり、聖い人も一人もいないのです。

8節:主は憐み深い方です。

私たちが神に言い逆らい、自分の犯した過ちによって滅びるほかないものであるにも関わらず、人々の叫びに耳を傾け、私たちを愛されているがゆえに、救いの道を提供される方です。

しかし、その方法は、人の願う方法ではなく、神ご自身が指定された方法によるのです。主は、モーセに『あなたは燃える蛇を作り、それを旗竿の上につけよ。すべてそれを仰ぎ見れば生きる』と約束されたのです。

9節: 青銅の蛇は個々の蛇を代表する

モーセは青銅の蛇を作った。一つの蛇を作った。これは、蛇をいくつも作るのではなく、ただ一つの模型を作った。これは、個々の蛇を代表したものである。そして、すべて蛇を象徴的にあらわしたものであった。

神様は、かまれた一人ひとりから蛇の毒を抜き去っていやしたのではなかった。毒は彼らの体の中にあった。しかし、毒が体に回っていても、青銅の蛇を仰ぎ見たものは生きることができた。青銅の蛇を仰ぎ見なかったものは死んだ。

神様が指定した救いの方法に従った者は生きることが出来た。

彼らは蛇の毒が体に回り、地をのたうち回りながらも必死で、旗竿の上につけられた青銅の蛇をみたはずです。彼らは、青銅の蛇というただ一つだけある蛇の模型を見た時にそこに自分をかんだ蛇がつけられていることを信仰の目で見る事を要求されたのです。

エス様はすべての罪人の代表となられた。

旗竿の上につけられた青銅の蛇とは、イエス様の十字架の上に乗せられている私たちの罪です。

青銅の蛇が、個々の蛇を代表していたのように、イエス様はすべての人の罪の代表となられました。

 救われるためには信仰を求められる。

 

神様はなぜ、人々を総ざらい救って下さらないのでしょうか。イエス様がすべての人の罪の代表として死なれたのなら、すべての人はイエス様の死によって滅びから免れてもいいと人は考えます。

青銅の蛇を見上げた者だけが救われたように、今も同様、十字架につけられたイエス様がわたしの罪を負って下さって死なれたということを信じ見上げる者だけが、滅びから命へと移されるのです。

 

エス様が私の罪の身代わりとなって十字架について下さったことを信じる者は救われるということを青銅の蛇の物語は私たちに教えてくれています。

2020.2.9 名古屋集会メッセージ要旨。

人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということをあなたにわからせるためであった。申命記8章3節

ルカ4章1節から14節

主題:人の生きる道

アウトライン

1:イエス様はサタンの誘惑に陥るような方ではない。

2:サタンは何を誘惑してきたのか。アダムに対する誘惑と同質である

3;イエス様は人の模範

4:人はパンだけで生きるのではない。とはどういうことか。

  申命記8章から。詩篇103:7 

1 イエス様はサタンの誘惑に陥るような方ではない。

  完全な人として歩まれたイエス様。

  1. そもそも、これらの悪魔の誘惑にイエス様は誘惑されるのか?されないでしょう。これらは、罪ある人間にとっては誘惑になる。イエス様がおなかすいたと石をパンに変えるだろうか。すべてを父なる神の命令に従う、すべてを父なる神に聞きながら行動をしようとするイエス様が自分勝手に、石をパンに変えるはずがない。同じく、イエス様が悪魔を拝むことなどありえない。イエス様が悪魔の言葉にそそのかされて、御言葉が本当かどうか証明しようと悪魔の言葉に乗せられるはずがない。
  1. 悪魔の誘惑は、神の子なら、と人となられたイエス様にご自身で神の力を行使させようとしていることにある。一度でも、イエス様が神の力を、父なる神の御旨を聞かずに行使したならば、イエス様が人の子として罪を犯さずに罪の贖いの小羊になるという救い主の使命が破棄されてしまう。悪魔の目的は究極的には、そこにあった。
  2. エス様は、悪魔の誘惑を神の言葉を~と書いてあると言い表すことによって退けた。これは私たちが悪魔の誘惑に遭う際の模範である。
  3. キリストは、人の姿をとって生まれた時から、完全に神であることを放棄し、人として歩まれた。これは、人間が神に従って歩んでいくときの模範である
  4. 洗礼の後、聖霊に満たされると、信者は誘惑にあう。
  5. 御霊が荒野に導かれる。

 

2 サタンは何を誘惑してきたのか。アダムに対する誘惑と同質である。

エス様に対する誘惑は、アダムに対する誘惑と同質にものであることに気が付く。

  • パンになれ。

エバに対して、決して食べてはいけないと言われた善悪の知識の木。サタンは誘惑し、この木の実がおいしそうに見えるように誘惑した。

人の肉体の弱さに対してサタンは誘惑を仕掛けてきた。

  • いっさいの権力と栄光をあなたにあげる。

サタンは、エバに木の実を食べさせるために、いかにもおいしく見せるという方法の次に、この実を食べれば神のように善悪を知るようになると誘惑した。エバにとって、善悪を知るようになれる、神のようになれるということが誘惑であった。

エス様に対して、この世の栄華、権力を与えると誘惑した。

  • 飛び降りてみろ。

エバに対して、神はほんとうに言ったのかと、神の言葉を疑わせ、神の言葉から離れさせようとした。

エス様に対して、神殿の頂きから飛び降りさせて、『あなたを守らせる』という神の言葉は本当なのかと神の言葉を疑わせようと誘惑した。

サタンは最初の人アダムを誘惑し、アダムとエバを神に対する不従順へと導き、それは成功した。その結果、人には罪が入り込み、神と人は分け隔てられることなった。

エス様に対しても同様に誘惑した。しかし、イエス様はサタンの誘惑を退けた。

神に対する全き従順を証された。それゆえ、イエス様には、罪なき人として十字架において、神の小羊としてご自身を神にささげることができた。神は人の罪の贖いの代価として、罪のない犠牲を求められる。

エス様に対するサタンの誘惑の本質は、アダムとの比較、まことの人としての証明にあったと言えるのではないか。

3 イエス様は人の生き方の模範。私たちが学べる事。

  • 人の生き方とは『①あなたの神、主の命令を守って、②その道に歩み、 ③主を恐れなさい』

4 人はパンだけで生きるのではないとは、どういうことか。

イスラエルの民は、荒野の歩みの中、毎日、神よりマナを与えられ、命をつなぐことができた。しかし、神のイスラエルに対する目的は、マナというパンを与えることにあったのではない。

マナは、荒野を生き延びるために与えられた生活の手段である。

神のイスラエルに対する目的は、人は神の言葉、神の導き、神の守りに信頼し、神に従順に生きることを学ぶためであった。

主は、今も私たちに生活の糧を備えて下さる。衣食住を備えて下さる。多くの人はこの衣食住を満たすことだけに必死である。しかし、衣食住は生活の手段であって目的ではない。神が、人に求めていることは、今も、『①あなたの神、主の命令を守って、②その道に歩み、 ③主を恐れなさい』である。

2020.2.2 茅ヶ崎集会メッセージアウトライン。

あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。マタイ24章3節

ユダ族からでたしし、ダビデの根が勝利を得たので、その巻物を開いて、7つの封印を解くことができます。黙示5章5節

1:封印を開かれているイエス様。

エス様が天に帰られたのち、父なる神様から巻物を手渡されました。イエス様が神の右に座されたことの大切な務めはこの巻物の封印を解くことにあったと思われます。

エス様に神のさばきの権威が付与されました。

黙示録6章以下、イエス様が巻物の封印を解き、どのようなことが起こるかが明かされています。イエス様は、すでに2000年も前に天に帰られましたので、巻物の封印は開かれ始めていると考えてよいと思われます。

2:第6の封印が解かれると、主の空中再臨が始まる。

黙示録6章12節以下、第6の封印が解かれると、天の星が地上に落ち、天の万象が揺り動かされます。

6章17節に、『御怒りの大いなる日が来たのだ』と記されています。これはどのようなことを表しているのでしょうか。

マタイ24章29節以下を読みますと、『星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。』とあり、30節に、『人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのをみるのです』と記されています。つまり、第6の封印が解かれた後に起こることは空中再臨であることがわかります。

『御怒りの大いなる日が来たのだ』とはイエス様の空中再臨のことです。

クリスチャンにとっては、空中再臨は、イエス様との婚宴の時であり、喜ばしく待ち望む日です。しかし、この日にクリスチャンとならなかった者にとっては、大患難の始まりの日であり、それは、まさに御怒りの大いなる日と呼んでよいものです。

『苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えてくださることは、神にとって正しいことなのです。そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときにおこります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。』Ⅱテサロニケ1章7,8節

注意しておきたいことは、マタイ24章29節に、『だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、』とあり、第5までの封印が解かれるまでも大きな艱難が地上を襲いますが、そのあと時を経ずすぐにと記されていることです。

3:空中再臨の際にも、選びの民が集められる。

マタイ24章31節に『四方からその選びの民を集めます』とあります。この御言葉に関連している聖書箇所は黙示録の7章の前半ではないかと思われます。黙示録7章4節以下、『イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、14万4千人であった』とあります。

これは、空中再臨の際に、クリスチャンとともに引き上げられるメシアニックジューを表しているのではないでしょうか。

7章1節から3節にかけて、四方の風が押さえつけられて、地、海、木にも害を与えない時が用意されていますので、これは8章1節以下の天の静けさを表しているかもしれません。そうすると、この14万4千人は、空中再臨後の地上での大患難が始まる前に選びの民があらかじめ集められる時とも読むことが出来ます。

しかし、私は、異邦人クリスチャンと共に空中に引き上げられるメシアニック・ジューではないかとこの度は教えられました。

4:終わりの時とはいつのことか。

マタイ24章に戻りますが、終わりの時とはいつのことなのでしょうか。弟子たちは心配になり、イエス様に終わりの時がいつのことかと尋ねました。

①終わりの時は、イエス様が地上に来られた時からすでに始まっている。

エス様は宣教の始まりに『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われました。

終わりの時は、イエス様が来られたときからすでに始まっています。(それ以前からと考えてもいいかもしれません)

②終わりの時とは、さばきの時だけでなく、空中再臨の時も示している。

終わりの時が進むにつれ、戦争や疫病や飢饉などの様々な艱難が地上を襲い始めますが、終わりの時とイエス様が言われるとき、大切なことは、イエス様が空中にまで来られることとまたユダヤ人にとっての希望である千年王国が始まることを言われています。

空中再臨はクリスチャンの望みであり、千年王国ユダヤ人の望みであります。

5:第7の封印が解かれ、第7のラッパが吹き鳴らされるときに、千年王国が始まる。

黙示録10章7節『第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神ご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する』

とあるとおりです。預言者たちが語ったことの要点は、イスラエルの民のためにメシヤが来るということです。

6:私たちは、終わりの日を恐れて待つのではなく、希望をもって待ち望む。

エス様は、マタイ28章20節において『見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます』と宣べられました。

これから先、大きな艱難が私たちにも臨むかもしれません。そして、日々一刻一刻、終わりの日は進んでいます。けれども、イエス様がどのような艱難の中にあっても、世の終わりまであなたたとともにいると言われました。

それゆえ、私たちは終わりの日をただ不安に思うのではなく、主が共にいて下さることに平安を覚えて過ごしていくことができます。

また、すべての日本国民に対して、父なる神様は、イエス様を信じるようにと促されており、イエス様を信じ、知ってこそ、この困難な時代にあっても平安に過ごせることを願われている。

2020.1.26 茅ヶ崎集会建徳要旨

すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば生きる。民数記21章8節

主を仰ぎ見ることの祝福

 

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。イザヤ45章22節

見よ。世の罪を取り除く神の子羊ヨハネ1章29節

1:1節から3節 カナン人に対する勝利。イスラエルが紅海を渡り、40年の荒野での生活ももうすぐ終わるころの出来事です。イスラエルはガデシュの地に着き、まっすぐ北上すれば2週間でカナンの地にはいれるという地点にまできていた。カナン人は強かったが、イスラエルは主に請願を立て、カナンの町々を渡してくれたなら、その町々を聖絶しますと約束し、主はイスラエルに勝利をもたらしました。彼らは、このことにより、大変意気も上がり、約束の地カナンにまであと少しで入ることができると喜んだに違いない。彼らは主がまっすぐにカナンの地に進めるように導かれるものと期待して待っていた。

4節、5節 なぜ彼らは途中で我慢できなくなったか。

ところが、神はイスラエルの民をカナンの地とは全く逆の葦の海の方角へ導かれました。彼らが期待していた約束の地からどんどん離れていくことを知った時、彼らの期待は失望に変わっていきました。彼らの待ち望む目標から再び離れて行ってしまった。ことは、彼らに大いに失望を与え、再び主とモーセを非難する罪に陥ってしまったのではないでしょうか。

 

全会衆たちは、かつてカデシュにて、カナンの地を探らせたとき、不信仰により神の怒りを買い、「ただエフネの子カレブと、ヌンの子ヨシュアのほかは、あなたがたを住まわせると誓った地に、だれも決して入ることはできない」民14章30節。と神から罰せられた経緯があり、この時も直接カナンの地に入ることは許されなかったのでしょう。

*私たちもあと少しで目標に到達できると思う矢先に、急な進路変更が迫られたり、神様が全く逆の道に導かれ始めたとき、私たちもこの道は本当にあっているのだろうか、このまま進んでいいのであろうかと、再び、荒野という道をあゆまなければならないのかと心が折れてしまいそうになることがある。そのようなときに、私たちの心は、耐えきれなくなってしまう、そして、今まで導いてきた神に文句を言ってしまうことがあるのではないでしょうか。

2 燃える蛇

6節 神に対する不信仰は死をもたらす。

燃える蛇は民にかみつき、民は蛇の毒で死に至った。

主は、彼らのつぶやきを聞いておられた。彼らが主に信頼することをしないために、主とモーセを非難したために、主の怒りが彼らに望み、主が燃える蛇を彼らの間に送り、蛇が民にかみつき、多くの民が蛇にかまれて死んだ。

 *この事件が意味することは、信仰生活の途上において、私たちは神に対する不信仰や不従順、不平、不満といった罪を犯してしまいやすい。そのような一見小さく見えるかもしれないがそれらを放置しておくと、やがて蛇の毒のように全身に回り死んでしまう。つまり、生き生きとした信仰を失ってしまい神にとって役立たないものとなってしまう。

3:人の考える解決の道と神様の示す解決の道は異なる。

7節から9節:民は神のさばきに恐れをなし、モーセのところに嘆願にきた。

【民の願い、民の解決方法】

死の原因になった蛇を直接、主が取り去ってくれるように、モーセにお願いした。

【神の願い、解決方法】

燃える蛇を作り、それを旗竿の上につけよ。であった。神様は、かまれた一人ひとりから蛇の毒を抜き去っていやしたのではなかった。毒が彼らの体の中にあった。しかし、毒が体に回っていても、青銅の蛇を仰ぎ見た者は生き、青銅の蛇を仰ぎ見ることのなかったものは、死んだ。神の指定する救いの方法に従った者は生きたということである。

青銅の蛇は、彼ら一人一人に噛みついた個々の蛇を代表している。

青銅の蛇の上に、自分に噛みついた蛇が掲げられていると見ることを求められた。

見上げた者は、生きることができた。

エス様はすべての人の罪の身代わりとして十字架につけられた。

青銅の蛇を見上げることを求められたのと同じように、

私たちは、イエス様の上に自分の罪が釘付けられたことを信仰の目によって見る者は新しくいきることができる。

 

 

一人苦しみの最中に主を見上げるということは決して安易な道でないかもしれない。しかし、信仰の友がいる。友と共に礼拝において賛美において、祈りにおいて主を見上げることを見失わないようにしたい。

2020.1.12 茅ヶ崎集会メッセージ要旨

恐れるな。わたしはあなたと共にいる。たじろくな。わたしの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、私の義の右の手であなたを支える。イザヤ41章10節


You Raise me Up

 

When I am down and, oh my soul, so weary
When troubles come and my heart burdened be
Then, I am still and wait here in the silence
Until you come and sit awhile with me
私が気落ちし、私の魂があまりにも弱り果てているときに、
多くの困難が襲いかかり、私の心が重荷でつぶされそうになっているそのときに、
私はただ静まって、沈黙の中であなたを待ち望みます。
あなたが私の傍らに来て、そっと抱き寄せてくれるそのときまで。
You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, walk on stormy seas
I am strong, when I am on your shoulders
You raise me up......To more than I can be
あなたが支えてくれるからこそ、私は山の頂に立つことができる。
あなたが引き揚げてくれるからこそ、私は嵐の海をも渡っていける。
私が強くなれるのは、ただあなたが私を支えてくれるから。
あなたが覚えていてくれなければ、今の私は無かった。 
There is no life-no life without its hunger
Each restless heart beats so imperfectly
But when you come and I am filled with wonder
Sometimes, I think I glimpse eternity
この世において、完全に満たされることはないけれど、
心が騒ぎたち、不安で溢れてしまうけれど、
それでも、あなたがそばに居て、あなたの不思議に満たされるとき、
私は、いまここでもあなたの永遠を想うことができる。 
You raise me up, so I can stand on mountains
You raise me up, walk on stormy seas
I am strong, when I am on your shoulders
You raise me up......To more than I can be
あなたが支えてくれるからこそ、私は山の頂に立つことができる。
あなたが引き揚げてくれるからこそ、私は嵐の海をも渡っていける。
私が強くなれるのは、ただあなたが私を支えてくれるから。
あなたが立ち上がらせてくれるから、わたしは新しく輝くものとなれる。
(邦訳:今岡 誠)
 
 

しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。イザヤ53章5節

私たちはどのようにしてイエス様を自分の救い主として受け入れ、信じることができるのでしょうか。イエス様の苦難はどのように私たちと関係するのでしょうか。

 

53章は、苦難のしもべ、イエス様の受難の生涯を描いたものです。特に、十字架につけられる前後のイエス様の姿を預言しています。

ドラマのような構成になっています。5節までが前半、6節から後半の大きく2部に分けられます。前半は、苦難のしもべの生涯と信じる者がどのような関係にあるか。後半は同じく、苦難の僕の生涯と神様の御旨について描かれています。

 

前半、若木のようにすくすくと育ったしもべが、ある時を境に苦難を負い始めます。

初めは他人事のように、上から目線で、因果応報の視線で苦難の僕を描きます。

ところが、ある瞬間から、彼の苦難は身代わりにより、いやしが私たちに臨むという発見、驚きが起こります。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。5節

 

後半、彼の苦難に対する神様からの御旨が明らかにされていきます。

エス様の姿は、私たちが避けて通りたいこと、いやそれ以上に、忌むべきこと、認めたくないことです。

私たちはイエス様の姿を無意識的に見ないようにし、見ても、それは、自分とは無関係なこととし、もしくは、上から目線で他人事のように解釈してしまいます。

しかし、イエス様は、私の身に起こっていることは、あなたの身に起こっていることであることに気が付いてほしいと願っています。

 

しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末永く、子孫をみることができ、

主のみこころは彼によって成し遂げられる。10節

 

エス様の姿に気が付くのはどういうときでしょうか。

それは、自分自身の身にイエス様の受けているような苦難が生じた時、その時からイエス様の苦難に、初めて自分の姿を重ね合わせることができます。

エス様は、イエス様の上に起きた苦難に自分を重ね合わせるまで十字架の上でじっと私たちを待っているかのようです。

エス様の十字架の上に己を重ね合わせることができた時、つまり、主は私の苦難をすべて身代わりとして負って下さったことを見ることができた時、

私たちの魂は救いへと導かれるのです。

「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。Ⅰテモテ1章15節

 

降誕記念日にイエス様の受難の生涯を心に刻みたいと思います。

 

2019.12.22 茅ヶ崎クリスマスメッセージ要旨。

 

 

闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民を増やし、その喜びを増し加えられた。イザヤ9章2節、3節。

皆さん、今日は。久しぶりにこの集会に参加することができました。

エス様を愛する人々の集まりはこの世の中の集まりの中でももっとも尊いものです。

姉妹のご愛労によって、今年も共に救い主がお生まれになった。救いがすでに到来していることを共に喜べることはなんと幸いなことでしょうか。

 

今日、クリスマスに与えられた御言葉のキーワードは三つあります。

闇、光、そして喜びです。

闇とは人がイエスキリストを信じる前の状態であり、悪魔の支配と人の罪を表しています。

光とは、イエスキリストであり、救い主のことです。

喜びとは、罪人である人がイエスキリストを救い主として信じて与えられる神からの賜物です。

この三つについてお話ししたいと思います。

 

1:闇の中を歩んでいる。

最近のテレビのニュースはニュースを開いてみると悲しいことに人が人を殺したということばかりです。民が民に敵対し、国が国に敵対し、ほんとにニュースなのでしょうか。

少なくとも、良い知らせ、グッドニュースではありません。バッドニュースです。

バッドニュースの中で、私が悲しかったのは、農水次官であった父親が自分の息子を殺さなければならなくなったニュースがありましたが、その娘さんも自殺にまで追い込まれていたことを知り、一つの家族の中にあった闇の深さにため息がもれました。どれだけ、息子が立ち直ってほしいと父親として苦しみ続けたことでしょうか。わが子に手をかけなければならなかった父の苦しみ、家族の苦しみ推し量ることができません。

このような家族間の闇の問題は他人事ではなく、人間関係を破壊しようとする闇の力を感じます。

 闇の中を歩んでいる。これが、この世の人々の実相なのではないでしょうか。誰でもよい家庭をよい家族関係を夫婦関係を望んでいるのに、私たちの意志を超えた闇の力が私たちを望まない方向に導いていってしまうこの悲しみ、人が人を殺し、信じる心が失われ、愛することを欲望と勘違いしながら自分の欲望を満たすために生きていくことが当たり前だと思うような世の中の流れは、ほんとに闇だといわざるおえません。

しかし、世の人々は、これが闇だとは気が付かずことができない。闇は、闇を区別することができないということです。

そして、この闇は、世にある以上に、人の心の中にあり、人の心を支配しようとしているのです。

この闇はどこからくるのでしょうか。

コロサイ人への手紙に、神は、暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいましたと書いてあります。

神に反逆したサタンが世を支配し、人々の魂を暗闇の中に閉じ込めようと暗躍しているのです。

人はこの闇から抜け出そうと努力しもがきます。しかし、闇から抜け出すことができずに苦しんでいます。

それは、なぜでしょうか。それは、人には罪があるからです。

罪とは神との断絶です。神の命、神の世界から切り離されてる人の姿です。

神から切り離されているゆえに、人は闇(悪魔)の力に勝つことができないでいるのです。

エペソ2章にあるとおり、すべての人は自分の罪と罪過との中に死んでいたものであって、この世の流れに従い空中の権威をもつ支配者としていまも不従順の子らの中に働いている霊に従って歩んでいたとあります。

2:光とはイエス・キリスト

イザヤ書の預言は喜びの知らせ、グッドニュースです。

このような暗闇を歩んでいる民の上に光が照り、大きな光を見たと書いてあります。

この光とは、救い主のことです。救い主が大いなる光を見、救い主が死の陰の地に住んでいた者たちの上に光を照らすという喜びのお知らせを預言しています。

ヨハネ福音書1章5節には、光は闇の中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかったと書いてあります。

闇の中にいる民は、自分で闇を照らすことはできません。光の源である神だけが闇を照らすことができるのです。

この光はすべての人を照らすまことの光です。

この光を私たちの心の中心にお迎えするとき、私たちの心の闇は追い出されます。

暗闇を懐中電灯で照らすと一瞬そこは明るく光りますが、懐中電灯をそらすと再び暗闇が支配してしまいます。

しかし、暗闇の中心に光を置くとき、ろうそくの炎のように暗闇の中心から光が照り出し、闇は光を消すことはできません。

エスキリストを罪人を救うためにこの世に来てくださったということば真実でそのまま受け入れるに足るものです。

エスキリストは、失われた者を探して救うために来られました。

3:あなたの人生が喜びに満ち溢れるようになること

救い主であり、光であるイエスキリストを自分の心の中に受けいれる者は誰でも、心の闇の中心に光が差し込むことを体験します。

『イエス様、あなたを私の救い主、私の光として心の中に受け入れます』と信じて祈る者は誰でも救われます。

闇の中にあったあなたの人生は光で満たされます。それは、あなたの喜びとなり、その喜びは増し加えられていきます。

あなたの人生が喜びに満ち溢れるようになることが、救い主をこの世に送られた神様の願いです。

たとえ、あなたの人生が今闇の中にあろうともあなたの上には大いなる光が照り輝いています。今、この光に目を向け、この光を自身の心の中に人生の中に迎え入れる決心をしてください。迎え入れる決心をしたその瞬間からあなたの人生の中に喜びの光が現れます。この喜びの光は、闇が覆いつくそうとしても覆うことができない。永遠の喜びの光です。

 

祈りましょう。

エス様、今、あなたを私の個人的な救い主として信じて、私の心の中にお迎えいたします。

どうぞ、私の心の闇を追い出し、喜びの光で私の心を満たしてください。救い主イエス様のお名前によってお祈りします。アーメン。

2019.12..14 野毛・片瀬山合同クリスマス集会メッセージ。