主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

私の羊を飼いなさい。ヨハネ21章17節 

 

私たちは誰でも主に従うことに失敗をしてしまう者です。主を信じて、主を喜んで主に力いっぱい従って来たはずなのに、こんなはずではなかったと悔やまれるような辛い悲しい経験をすることもあります。ペテロと同じように、世の権力の力に圧倒され、またサタンの敵意に満ちた激しい脅しに屈服し、主を知らないと裏切ってしまい、涙を流す時もある。すべてを捨てて主に従ってきたけれども燃え尽きてしまい、もう主に従う元気も全く失ってエリヤのようにうつになってしまう時もある。 しかし、今日の聖書が私たちに伝えていることは「あなたはイエス様をあきらめたとしてもイエス様はあなたをあきらめてはいない。あなたはイエス様に対して不誠実、不忠実であったとしてもイエス様は常にあなたに真実と誠実を尽くしてきた。あなたの失敗とあなたの失望はあなたの弟子としての歩みの終わりではない。」イエス様は、あなたの中にまだ不十分であっても私を愛する愛があればそれで十分だ。もう一度私についておいで。いっしょに歩もう、共に歩こうと呼びかけて下さる。 

 イエス様がペテロに最初に呼びかけた「あなたがたを人間をとる漁師にしてあげよう」マタイ4章19節という召命は、これから始まるのである。今まではこの召命に生きるためにペテロという器を整えてきた成長の過程に過ぎない。ペテロは主を否定する自分に出会い、初めて己の原罪を知った。彼は初めて真実の悔い改めをしたのだ。 

 人は砕かれてこそ、神の通り良き管となることが出来る。自分の誇りを失い、神の恵みにのみより頼む者に変えられてこそ、あなたに備えられた賜物と召命は神の民の間で活かされるものとなるのだ。

2024.4.28 週報原稿要旨 茅ケ崎集会

私の羊を飼いなさい。 ヨハネ21章9節から17節

ペテロに対する主の再召命。

私たちは誰でも主に従うことに失敗をしてしまう者です。主を信じて、主を喜んで主に力いっぱい従って来たはずなのに、こんなはずではなかったと悔やまれるような辛い悲しい経験をすることもあります。
ペテロと同じように、世の権力の力に圧倒され、またサタンの敵意に満ちた激しい脅しに屈服し、主を知らないと裏切ってしまい、涙を流す時もあるかもしれません。
すべてを捨てて主に従ってきたけれども燃え尽きてしまい、もう主に従う元気も全く失ってエリヤのようにうつになってしまう時もあるかもしれません。
聖書を語る立場にありながら大きな過ちを犯し、私にはもう聖書を語る資格はありませんと嘆くこともあるかもしれません。

ただ、今日の聖書が私たちに教えて下さることは、
主は私たちを見捨てはしない。主は私たちを裁いてはいない。神の賜物と召命は変わることがありません。という神様からのメッセージです。

ですから、今日、特に話に耳を傾けてほしいのは、主に従うことに失敗し意気消沈している聖徒の方々
、また、まだ大きな試練に遭っていなくても、やがて遭遇する大きな試練の中で主を信じる心を失ってしまうような境遇に陥る時も、
大丈夫、主は私たちを見捨てたりはしない。主は私たちを裁いてはいない。神の賜物と召命は変わることがありません。ということを覚えていていただきたい。

要点
1.神の賜物と召命は変わることがありません。ローマ11章29節
2.神に用いられるためには自我が砕かれる
3.原罪の赦しを受ける
4.恵みによって愛されることによって立ち上がっていく。

 

1.神の賜物と召命は変わることがありません。ローマ11章29節

3節:しかし、その夜は何もとれなかった。
エス様との3度目の出会いは、彼らの失望から始まった。

彼らは復活のイエス様に出会っていたが、目標を見失っていた。彼らは再びガリラヤをイエス様と宣教旅行することをイメージしていたであろうか。
ここには、意気揚々とイエス様を待ち望んでいる彼らの姿は見えない。それは彼らの心の中に主を見捨てて逃げ出してしまったという後悔の念が心に残っていたからである。どのように主に向かうことができるのか彼らも分からなかったのである。
ただ、一度主に呼ばれ主に従い主と共に歩んだ者は、主と離れてかつての職業にただ戻ることはできない。
どこかで常に主が意識され、主とともに歩んだ宣教旅行の驚きと主とともに経験した喜びが心のうちに残っている。どこかでもう一度主に仕えて歩みたいという願いが消えかかる燈心の炎のようにゆらいでいる。

ガリラヤにつき、イエス様の姿を捜したがどこにも現れない。ガリラヤの湖を眺めながら、待てども待てどもいつイエス様が現れるかも分からないまま、時が流れていくのを感じて、彼らはもう一度漁に出ることを選ぼうとしてた矢先であったと思われる。

ガリラヤに戻ってきた弟子たちはまた以前の生業である漁師の仕事を再開した。
夜通し働いたが、何も取れなかった。
しかし、岸に立つ一人の男性が彼らに呼びかけ、網をおろす場所を指定された。そこに網を降ろすと大量の魚が網に入った。
この奇跡を目の当たりにして、彼らは言葉をかけ、そして大量の魚を与えられたのはイエス様であると悟った。
エスの言葉なしに彼らの働きは実を結ばないことを示された。

ペテロがイエス様に弟子になるように呼びかけられる直前、彼はやはり漁をしていたが何も収穫が無かった。その時イエス様に網をおろしなさいと呼びかけられ、イエス様の言われる通りに網をおろすとおびただしい魚がとれるという体験をした。
ルカ5章4から6節「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
彼らの沈んでいた心にイエス様と最初に出会った原体験ともいうべき奇跡をもう一度再体験する機会が与えられ、彼らの沈んでいた心は元気を取り戻そうとしていた。

神の召命に従って歩むには、働きのすべては神の祝福によって実を結ぶことをここでも示したのだ。

自分の功績を誇るうちは神の働きは始まらない。神の召命に生きるためにはそのことを身をもって学んでいることが重要なのだ。

エス様は彼らに出会いの原点を思い起こさせていた。

エス様はヨハネの子シモンを見て、将来、人をとる漁師、群れの牧者となる器であることを見抜き、彼を弟子として招いた。
私たちが救われたのは、ただ罪を許し神の子供とするためだけではなく、神の目的がある。
賜物と召命を与えるために、神の働きに参与する器となるために弟子として招くのだ。
「あなたは人間をとるようになるのです」

2.神に用いられるためには自我が砕かれる。誇りが失われ、弱さ、人の限界を知る。
9節:そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
ペテロは本気で自分はイエス様につまずくことはないと自分を信じていた。
「たとい、全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」マタイ26章33節
「わたしはあなたを知らないなどとは決して申しません」35節。と本気で自分を信じていた。
しかし、全議会の前でイエス様が死刑判決を受けることを知ったのち、彼は怖くなり、イエス様を三度も知らないとのろいながら誓いを立ててイエス様を否定した。

エス様を否定したとき、ペテロは役人たちといっしょに「炭火をおこし、そこに立って暖まっていた」
ペテロはイエス様が用意して下さった炭火を見て、自分の裏切りがフラッシュバックされる中でイエス様とともに食事をした。

彼は炭火を見つめるとき、
彼は自分の情熱や自信、決心、誓いががどれほど当てにならないものか、窮地において人は神を裏切る存在であるのかを教えられた。ペテロはイエス様の十字架を前にして、自我が砕かれ、自分は罪を他の弟子たちのように弱さの中で主を裏切るような罪は犯さないと自負していたにも関わらず、自分も神の前で罪人の一人に過ぎないということを教えられ、彼は砕かれました。

これは人の原罪と言われるものである。人がどれだけ最善を尽くしたとしても神の義には到達することはない。ペテロはこの時、自信の罪深さ、神に有罪判決を受けても何一つ弁解する余地の無い罪深い人間であることを知った。
砕かれてこそ、人ははじめて神の賜物と召命に生きることができるのです。

3.原罪の赦しを知る。

12節;さあ来て、朝の食事をしなさい。
エス様に顔向けができない。他の弟子たちもイエス様の復活を喜んではいたが、イエス様とどう向き合ってよいのか戸惑っていた。
エス様と共に食事をすることの時の流れの中で、彼らの気持ちも少しづつ落ち着き癒されていったのではないだろうか。
主は、私たちをやみくもに働かせる方ではない。私たちには休息が必要であることを知っている。平凡な日常もまた必要であることを知っている。
主の働き人が燃え尽きて、疲れ切ってしまったのならば、しばしありふれた日常に戻り、しずかにイエス様と過ごす時間も大切である。

15節:彼らが食事を済ませたとき
 共に食事をしてくださるイエス様にはペテロの過ちを咎め責める言葉は何もない。
責めるのではなく、イエス様は私を愛するかと呼びかけてくる。イエス様からのアガペーの愛で愛するかの問いかけに、ペテロはとてもアガペーという完全な愛で愛せると言うことはできなかった。
エス様はどれだけ人が失敗したとしても、咎めたりしない。どれだけ、神を否定したとしても咎めたりしない。神は人が罪人であること、決して正しく歩むことのできない存在であることをよくよく承知している。ペテロもやはり例外では無かった。
神は人の原罪を赦すためにもイエス様を罪の生贄として十字架に掲げられた。
1テモテ1章15節「私はその罪人のかしらです。~まずわたしに対してこの上ない寛容を示して下さったからです。」
ペテロは自分の中に不完全な愛でしかイエス様を愛することのできない人の罪深さと限界を今は知っている。イエス様はペテロに3度目にフィレオーの愛で輪足を愛するかと尋ねられた。
エス様は私たちに神のような完全な愛で愛することを求めはしない。不十分な愛、不完全な愛、見返りを求めるような自己愛が混ざるような愛でも良いと言われる。
神の前に自我が砕かれ、罪の深さと肉の弱さを味わい、己の罪深さを悔いるものに復活のキリストは近く交わって下さる。そして、自分を誇ることなく、神ののみを誇るように変えられた魂にこそ、
初めより与えていた賜物と召命を今活かすときが来たと呼びかけて下さるのである。
「すなわち、ある者をない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」第一コリント1章28,29節。

まとめ、
はじめイエス様に呼びかけられてうれしくてうれしくて熱心にイエス様についていったあなたも、
はじめ描いていたイエス様の姿が崩れ去り、激しい誘惑に遭い、自分の意志に反して大きな過ちを犯してしまうことがあるかも知れない。
当初描いていたイエス様に従うことがあまりにも苦しくて、もうあなたに従えないとイエス様を知らないと言ってしまう時があるかもしれない。激しい試練に疲れ果て、引きこもってしまうこともあるかもしれない。
しかし、今日の聖書が教えてくれていることは、
あなたはイエス様をあきらめたとしてもイエス様はあなたをあきらめてはいない。あなたはイエス様に対して不誠実、不忠実であったとしてもイエス様は常にあなたに真実と誠実を尽くしてきた。
あなたの失敗とあなたの失望はあなたの弟子としての歩みの終わりではない。
エス様は、あなたの中にまだ不十分であっても私を愛する愛があればそれで十分だ。
もう一度私についておいで。いっしょに歩もう、共に歩こうと呼びかけて下さる。
エス様が最初に呼びかけた「人とる漁師にしてあげよう」という召命は、これから始まるのである。今まではこの召命に生きるためにペテロという器を整えてきた期間に過ぎない。
ひとは砕かれてこそ、神の通りよき管となることが出来るのだ。自分の誇りを失い、神の恵みにのみより頼む者に変えられてこそ、あなたに供えられた賜物と召命は神の民の間で教会の聖徒たちの間で活かされるものとなるのだ。

 

2024.4.21  湘南コミュニティーチャーチ 礼拝説教

2024.4.27 片瀬山集会

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖いイザヤ書63章9節。新改訳)

 本来罪のないイエス様には苦しみを受ける理由はない。

エス様が苦しみを受けられたのは、すべて罪あるゆえに私たちが受けなければならない苦しみ、また悪の力によって私たちが受けざる負えない苦しみの身代わりとして受けて下さった.    

受難週にイエス様の苦しみを覚える時、その苦しみは私たちが経験する苦しみであることを知る。

自身に降りかかる苦しみはなんのためにあるのか。それは、イエス様に心を向けためである。

人の傲慢さは苦しみを受けなければ神を求めようとしないほど大きい。苦しみを通して、人は神を求め始める。その極限において、自身で苦しみを解決できないことを知る時、神に助けを求める。

そしてイエス様を信じる時、苦しみの奥に神の平安を受ける。

人の姿をとった神であるイエスキリストは確かに十字架の苦しみの過程の中であなたが今体験している苦しみを負われた。

聖書は約束する。あなたの苦しみの奥に必ず平安が生まれる。どんな平安か。それはこの世が与える平安とは異なる確かな平安である。

苦しみはこの神が与える平安に至る道に過ぎない。

神が与える平安を得たならば、病も愛する者の死の意味も知れるようになる。

エス様ご自身を知る平安にまさる平安は無く、世のどんな苦しみも嘆きも超越するものである。

神はこの平安をあなたに届けたいと苦しみという恵みをあなたに賜った。

2024.3.31 週報

私の苦しみの身代わりとしてのイエス様

メモ

本来、罪のないイエス様には苦しみを受ける理由はない。

エス様が苦しみを受けられたのは、すべて罪あるゆえに私たちが受けなければならない苦しみ、また悪の力によって私たちが受けざる負えない苦しみの身代わりとして受けて下さったことを信じる。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。イザヤ53:5

 

エスは悲しみもだえはじめた。マタイ26:37

エス様は自身のこれからの苦難を思い、愛する弟子たちと離れなければならない悲しみに悶え始めた。弟子たちは、いまだに主がこれからどのようになるかを知らない。

自身の死を知る母親が幼い子供たちのいくすえを案じ、自身が子供たちの成長を見守れない悲しみ、子供自身に母親がいなくなり、悲しむ姿を想像するときの悲しみ、その子供たちの悲しみを自身が慰めることのできない悲しみ、愛するものとの別れは悲しみを生む。

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。マタイ26:39

受けなくてはならない苦難であることを十分しりつつも、なおこの苦しみが取り去られるように祈られるイエス様。

私たちの受ける苦難に対して、周囲はもうあきらめなさい、覚悟を決めなさい、だれでも経験することだ、あなただけじゃないなどと励ますかもしれない。

しかし、人は本心ではこの病が治ってほしい、取り除いてほしいと願っている。

そのように願うことがあたかも往生際が悪いと他人はいうかもしれない。

しかし、イエス様のような方でさえ、この杯を過ぎ去らせてくださいと恥ずかしげもなく神に祈り求めたのだ。

私は、イエス様のように祈っていいのだ。心の底から神に病の癒しとその苦難を過ぎ去らせてくださいと祈っていいのだ。

一時間でも、私といっしょに目をさましていることができなかったのか。40節

エス様は一番、祈りの友を必要とする時に肉の弱さのために一緒に祈ることのできなかった弟子たちを見る。イエス様は一番の苦しみをだた一人祈るほかなかった。

私たちは祈ってますと苦難の中にある人に声をかける。しかし、他人はどれほど他人のために祈り続けることができるのか。

一番一緒に祈っていてほしいと願う人と一緒に祈ることができない苦しみと悲しみ。

私たちも人の祈りは励ましになる。支えになる。しかし、自身のことは自身がただ一人祈らなければならない孤独、祈りの戦いがあることを知る。しかし、その時、イエス様もただ一人祈りの戦いに臨まれたのだ。

どうしても飲まずには済まされない杯でしたら、どうぞみこころのとおりになさってください。42節

みこころのとおりになるということは苦しみが自分に襲い掛かってくることを意味する。みこころの通りとは、受難をさけられなくなることである。

この決断をするには父神への信仰を必要とする。

この決断は父なる神と一対一で向かいあい、最後は一人で答えを出さなくてはならない。みこころを受け入れるというまでにどれほどの祈り、葛藤があることか、

悩みと苦しみを味合わなければならないことか。

しかし、イエス様もこの祈りと、葛藤を味わわれた。

彼らはまたも眠っていた。43節

他人を当てにすることのできない限界、人の限界を知り悲しみに沈むイエス様。

私たちもお互いに人の肉の弱さと限界を知る時がある。自身でさえ、祈らなければならないときに、体調不良や気力の低下で祈れない時がある。

しかし、イエス様だけは最後まで祈り続けられた。

わたしを裏切る者が近づきました。46節

エス様は身近ないつも一緒に生活をしていた者に、愛していた弟子に裏切られる苦しみにあいました。

信じていた者に裏切られるという悲しみ、苦しみ、痛みもとてつもなく大きなものです。裏切る者が近づいてくるとはなんと恐ろしいことでしょうか。自分を罠にはめることをわかっていながら避けることができない苦しみ、

エス様もそのような苦しみを味わわれました。

そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。50節

エス様と何の関係のない群衆、イエス様に癒されたことも話を聞いたこともないような群衆、祭司長たちにただ扇動されてイエス様を捕えに来た群衆たち、

エス様はその背後には祭司長、長老たちがいることを知っていました。しかし、彼らは直接自分たちの手を汚そうとはしません。

ユダはイエス様を裏切るためしらじらしい挨拶をします。

人々の策略、謀略、わかっていてもだれも自分を助けることのできない無力感、失望、絶望感、悪の力が勝利したように思える瞬間、外的な暴力よりもこのような人の心の悪による暴力はどれほど人の心をずたずたに引き裂くことでしょうか。

エス様はこのような苦しみを味わいました。

それは、私たちがこの世の世界で味わう同じ苦しみを味あわれたのです。

そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。56節

自分たちも捕まるのではないかと恐れに捕らわれた弟子たちは皆、イエス様を捨てて逃げてしまいました。

それはイエス様が「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい)と命じられたからです。彼らはイエス様の言葉に従うほかありませんでした。

エス様は自ら敵の手に身を委ねましたが、それはイエス様が弱かったわけでも悪に負けたわけでもありません。依然としてイエス様には神の子としての権威を保っておられたのです。

父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。ヨハネ18:11

ここには、もう苦難を避けようとするイエス様の姿は無く、自発的に苦難を負うイエス様の信仰が現れています。

積極的に苦難を負うしもべの姿です。

平手でイエスを打った。ヨハネ18:22

敵に身を任すイエス様。相手のほしいままに暴力を受けるイエス

縛ったままで。ヨハネ24節

エス様は身体の自由を奪われる苦しみを受けられました。

今、世界には無実の罪で身体を拘束され苦しんでいる人々がどれほど多くいることでしょうか。無実のまま、時の政治の権力に捕まり拘束され裁判にかけられ有罪判決を受ける迫害を受けている人々がどれほど多くいることでしょうか。

エス様はそのような状況に置かれている人々の苦しみのために、捕縛されました。イエス様も同じような苦しみを受けられたのです。

エスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。マタイ27:14

エス様は自分に不利な証言がなされていることを知っているのに、その不利な証言は自身を十字架刑に向かわせることを知っているのに、何一つ自己を弁護しませんでした。

相手が間違っていること、訴えが不当であることを知っているのに、私たちは黙っていることができるでしょうか。

しかし、もう何を弁解しても自分の受ける道が決まっていることを知っているとき、覚悟を決めて何も言わないという選択を、信仰によってすることもあるでしょう。

不利な証言を耐え忍ぶ苦しみ、黙することの忍耐、このような苦渋を経験する時、

エス様も同時に私たちのこの苦しみを受けてくださっている。

彼らは言った。バラバだ。21節

十字架刑を免れる最後の望みを絶たれたイエス様。

このとき、イエス様は命乞いをしようとは微塵も思っていなかった。

しかし、イエス様の代わりにバラバが釈放されたことにより、イエス様の十字架刑は確定した。バラバを釈放したのは長老たちに扇動された無知な群衆たちであった。

フランス革命の時代、また共産党の時代、そして今も群衆の声に扇動されて無実の罪を押し付けられて死に追いやられる苦しみを経験しなければならない平和を追い求める人、義を追い求める人がどれほど多くいることか。彼らの苦しみをイエス様は身代わりとして味わった。

エスを鞭打ってから、26節

 

祈り

エス様、私たちは数えきれないほどの悲しみと苦しみがあります。

その苦しみを孤独の中でただ耐えるほかない場合も多々あります。

苦しみの意味を見出すことのできないゆえに苦しまなければならいこともあります。

その苦しみの理由がわからず、神様、なぜですか?と叫ぶほかありません。

 

そんな時、イエス様が私たちのために苦しんで下さったことを知り、信じます。

私が孤独であってもイエス様は私の孤独を共に経験し、苦しみを共に担って下さいます。

エス様が苦しみを担い十字架の苦しみを負い、死んで復活して下さったゆえに、

私の苦しみには終わりがあり、苦しみの後には解放があることを信じることができます。

受難週にイエス様の苦しみを覚えるのは、その苦しみは私たちが経験する苦しみだからです。

 

勧め

自身に降りかかる苦しみはなんのためにあるのか。それは、今までイエス様を知らないで生きていた人がイエス様に心を向けためである。

エス様を信じる時、苦しみの奥に神の平安を受ける。

人の傲慢さは苦しみを受けなければ神を求めようとしない。

苦しみを通して、人は神を求め始める。

その極限において、自身で苦しみを解決できないことを知る時、

神に助けを求める。

人の姿をとった神であるイエスキリストは確かに十字架の苦しみの過程の中であなたが今体験している苦しみを負われた。

 

エス様の中に自分の苦しみを体験して下さっているイエス様を知り、人はイエス様が私の個人的な救い主であることに気が付くためにある。

エス様を信じたからといって、苦しみは取り去られるのであろうか。

癌の病は癒されるのであろうか。愛する人は戻ってくるのであろうか。聖書は約束する。

あなたの受難の奥に必ず平安が生まれる。どんな平安か。

それはこの世が与える平安ではなく、この世のものとは異なる確かな平安である。

受難はこの神が与える平安に至る道に過ぎない。神が与える平安を得たならば、

癌の病も愛する者の死の意味も知れるようになる。

エス様ご自身を知る平安にまさる平安は無く、世のどんな苦しみも嘆きも超越するものである。神はこの平安をあなたに届けたいと苦しみという恵をあなたに賜った。

 

2024.3.23 片瀬山集会 3.24 茅ケ崎集会 受難節

 

 

 

結婚式祝辞

聖書にイエス様が最初に出席した結婚式の話があります。イエス様の親戚の結婚式だったので母マリアさんとお弟子さんたちも一緒に参加していたのですが、

一つの事件が起きます。

それは式の途中でぶどう酒が切れてしまったという事件でした。客にとって結婚式は花嫁花婿を真ん中にして食事を食べるのが楽しみです。

式の途中でおいしいお酒と料理が切れてしまったら結婚式は台無しになってしまいます。

そのとき、イエス様はどうしたでしょうか。

召使に命じて、水瓶に水をいっぱいくみなさいと命じました。

水瓶といっても一つで風呂釜くらいある大きな水瓶です。それも6っつの水瓶をいっぱいにするように命じました。不思議なことに、6つの水瓶にいっぱいになった水を汲んでお客に持っていく途中で水がぶどう酒に変わるのです。

それも最上のぶどう酒に変わりました。

その出来事を見て、宴会の世話役はこう叫びました「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今までとっておきました!)と言って花婿を褒めました。

 お二人は今までの生きてこられた人生の水瓶という器にたくさんの水を汲んでこられたと思います。多くの思い出と多くの経験もつまっていると思います。

人々は後になれば悪いものを出すと考えるかもしれません。

しかし、イエス様は後の方が良いと言ってくださっているのです。後になるほど今までの労苦の豊かな実を刈り入れることになるのだと言って下さるのです。

ぶどう酒も新しいものよりも時をかけて熟成されたものほどおいしくなります。

エス様は今、この時、お二人に最良のぶどう酒をもってお二人をもてなしてくださいます。どうぞ今日から始まります新しい門出を喜び楽しんでいただきたいと願います。

お二人の幸をお祈り致します。

 

2024.3.17 学士会館挙式

 

 

あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。ヨハネ2章10節

メモ

1節 バプテスマのヨハネから洗礼を受けて三日目にガリラヤのカナで結婚式があった。この結婚式は母マリアの親族の結婚式であったために、息子であるイエス様と彼のいとこたち、ヨハネやペテロやアンデレたちも招かれた。

結婚式にはすでに母マリヤが居て、親族の代表として結婚式の運営を見守っていた。

2節 宴会もたけなわになり、たくさんの料理が運ばれ人々は食事を楽しんでいたが、母マリヤはぶどう酒がなくなったことに気が付いた。

3節 マリヤは困惑し、息子であるイエス様に「ぶどう酒がありません」とどうしましょうと自分の心配を打ち明けた。

4節 本来ならばぶどう酒の管理は料理人たちがするもので、客として招かれたイエス様には何の関係もない。イエス様にしても私に言われてもどうしろというのだと思うこと。

ただ、マリアは、息子のイエス様に話したかったのだ。

エス様は母マリアとの関係を隠そうとする。イエス様はぶどう酒が無くなったという窮乏に心を留めたが、自ら人々の前で奇跡を起こそうとは思わなかった。

このカナでの最初の奇跡において、イエス様の姿は人々の前には隠されていた。

エス様は、母に向かって、女の方。とまるで他人であるかのような返事をする。

子供が母親と一緒にいるところを友達に見られるのを嫌がって、わざと他人の振りをする時のようだ。

 実際、ぶどう酒が無くなったのであれば、それは直ちに料理長に伝えるべきである。おそらく、マリア自身が料理長の役を担っていたのかもしれない。そのため、ぶどう酒が無くなったという窮乏をほかの誰かが解決できるわけでもなく、信頼する息子であるイエス様に直接伝えたのかと思う。

しかし、イエス様は直接自らが人前に出てこの問題を解決しようとはされなかった。

エス様は姿を隠されていた。

5節 マリアはどうしたら良いかは分からなかったが、イエス様を信頼していた。そのため、イエス様の他人行儀な言葉にもかかわらず、手伝いの者たちは、「あの方が言われることを、何でもしてあげてください」と伝えた。

4節での「女の方」という言い方は、母と息子という関係性ではなく、成人した一人の紳士と婦人との関係性に思える。

マリアはイエス様の「女の方」という言葉に、息子という親子関係の中でイエス様に接するのではなく、ヨハネよりバプテスマを受け、人の子、神の子、一人の預言者、メシアとして歩み始められた神の人として、イエス様への見方を新たにしなければならないことに気が付いたに違いない。

そこでマリアは「あの方」と手伝いの者たちに紹介した。

マリヤはイエス様が何をされるかは知らなかったがイエス様に全幅の信頼を置いていた。「何でもしてあげてください」とこの場をイエス様に委ねた。

6節 時に、イエス様の奇跡は私たちの日常の営みの先に現れる。私たちは、今ある困窮を知っている。その課題が早く解決されてほしいと願っている。しかし、何をどうしたら良いかわからないままにいる。ただ、イエス様に日々祈るほかない。私たちのできることは、その問題、困窮があるままに、日常生活をいつものように繰り返していくほかない。

7節 イエス様は手伝いの者たちに「水瓶に水を満たしなさい」と命じられた。彼らにとって水瓶に水を満たすことは日常の仕事であった。イエス様は何か変わったことを彼らに命じたのではなかった。そこで彼らは何の疑問も持たず、イエス様の言われる通り、水瓶に水を入れ始めた。

8節 水瓶に水が満たされた時、イエス様は彼らに「さあ、今くみなさい。」と言われた。満たされる時がある。汲む時がある。日々の労苦が報いられる時がある。

日常の積み重ねが奇跡に代わる時がある。

振り返ってみれば、それぞれの人生の節目があるのは、突然ではないことに気が付く。

今の職場は以前の職場で苦労した後にあった。若い時、希望の大学に入れたのはそれまでの中学、高校時代の努力の先にあった。今ある宣教の働きの現場は突然現れたのではなく、一つ一つの日々の祈りの先にあった。

エス様は時が満たされると「さあ、今だ!」と声をかけてくださる。言われた通りに新しい道に一歩踏み出すとそこには新しい世界が開かれる。

9節

水瓶の水全体がぶどう酒に変わったのではない。汲むまではただの水だ。しかし、手伝いの者が水を汲み、宴会の世話役のところに運ぶといつのまにかぶどう酒に変わる。

手伝いの者はそれがどこから運ばれてきたのかを知っている。しかし、彼らもそれがどうしてぶどう酒に変わってしまうのかは知らない。

彼らはただイエス様の言われる通りのことをしたに過ぎない。

エス様は姿を隠される。ご自身がなされた奇跡を隠される。イエス様は自身を誇らない。見せびらかしたりはしない。そっと、このカナの婚礼で起きたぶどう酒の欠乏という事件を静かに解決される。

客たちは何も知らずに宴会を楽しみ続けている。イエス様はその姿を見て喜び、満足されている。

10節 宴会の世話役は花婿を褒めた。よくぞ最良のぶどう酒を客のためにとっておいた。花婿の善良さ、ごまかしをしない誠実さ、客へのもてなし、親切心を褒めた。

11節 マリアもほっとした。そして、静かにイエス様に感謝した。

弟子のヨハネはこの出来事を心に留めた。そして、誰も気が付かなかったイエス様の奇跡を福音書にしっかりと書き記した。弟子たちはなぜ水がぶどう酒に変わったのかは謎のままであったが、この奇跡はイエス様によってもたらされたことは知っていた。

 

私たちは解決してほしい課題をイエス様に祈りつつ、

毎日の勤めをイエス様から与えられた務めとして大切に為す。

奇跡はやがて訪れる。新しい一歩を踏み出すその時が必ずやってくる。

新しい一歩は今までの為してきた営みの中にすでに隠されている。

 

あなたがたは立ち返って、落ち着いているならば救われ、

穏やかにして信頼しているならば力を得る。イザヤ30章15節

 

つとめて落ち着いた生活をし、自分の仕事に身をいれ、手ずから働きなさい。

                        第一テサロニケ4章11節

 

主に信頼して善を行え。

地に住み、誠実を養え。 詩編37編5節

  

 

 

 

 

 

 

 

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。イザヤ書53章5節

イザヤ書53章苦難のしもべ

レジュメ

1節 イエス様は神が待ち望み、救い主を求める敬虔なユダヤ人が待ち望んでいた救い主であった。
2節 切り株からでる新芽のように、地中深い水源に根を伸ばす、砂漠の地の植物の根のように、
2節後半から3節
1. 見とれる姿がない
2. 輝きがない
3. 慕うような見栄えもない
4. さげすまれ
5. のけ者にされ
6. 悲しみの人
7. 病を知っていた
8. 人が顔をそむけるほど
9. 私たち(救い主を待ち望んだ民も)は彼を尊ばなかった。
4節  神の意図:しもべの苦しみは私たちの苦しみを担う
     人の思い。彼は罰せられた
5節  神の意図。彼は人のそむきの罪と人の咎のために十字架につけられた。
5節後半 しもべが苦しみを負ったことによる人への祝福。
1. 彼への懲らしめ・・私たちに平安をもたらす
2. 彼の打ち傷・・私たちは癒された
6節  人の状態・・皆がさまよい、自分勝手な道に行く。
6節後半  父なる神の計画 私たちのすべての咎を彼に負わせた

7節  その姿はまるで屠り場にひかれていく子羊のよう。くちを開かない。黙従
8節  人々のしいたげと裁きにより、十字架によって処刑された
8節後半 十字架の意味。彼は人のそむきの罪のために打たれ、処刑された。
1. 9節 十字架の情景 犯罪の一人としてゴルゴダの丘で処刑された。
2. アリマタヤのヨセフの墓に収められた。
10節  神のみこころ。彼を砕き、痛めること。
10節後半、なぜ砕かれることが必要であったか。(罪過のためのいけにえ)
1. 彼によって祝福が望む。末永く子孫を見ることができる。
2. 主の御心は彼によって成し遂げられる
11節  激しい苦しみを受けた十字架の贖いの結果彼が受ける報い・・多くの人を義とする
12節  多くの人が与えられる
13節  復活され天におられる救い主。

1

はじめに。
イザヤ書53章にはイエスキリストの苦難のしもべとしての生涯が描写されています。主に十字架につけられるためにエルサレムに入った最後の一週間の姿が描写されています。
キリスト教信仰の中核は、イエス様の十字架にある。
それは、苦難のしもべの姿
十字架に見るのはみじめさの極み
ヒーローになれなかった神。
自分を最後まで救わなかった神。の姿。

イザヤ書53章はイエス様が十字架の道を歩まれたその苦難の姿が描かれています。
エス様ご自身が、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目の後によみがえらなければならない。」弟子たちに教えました。
エス様は十字架につけられ息を引き取られる直前に「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と父なる神様に叫ばれました。

要点
1.苦しみを受けられたイエス
2.イエス様の苦しみは私たちの苦しみを負われた。
3.イエス様の苦しみの中に己の苦しみを見るとき救われる。信仰。
4.キリスト教の救いのゴールは十字架の死ではなく、死からの復活にあります。

1.苦しみを受けられたイエス

人は誰でも基本的には幸せになるために働き、生きていると思います。
経済的に、健康的に、家族や友人との良い人間関係のために、また自身の願いや夢を実現したいがために生きています。
人が自分の思い通りの人生を生きられているときには、自分はなぜ生きているのだろうかと生きる意味を問わないで済むかもしれません。
私たちはどんな時に生きる意味を問いたくなるのでしょうか。
それは、人が苦しみに遭遇した時です。
それは私たちが背負いたくない人生を意図に反して背負わされてしまった時です。
生きているがゆえに、受けざる負えない数々の苦しみが押し寄せて来るときほど、
私はなんのために生きているのだろうか。辛くて死にたいと思う。
生きている間に答えが見つかればいいが、見つからないままに肉体の死を迎えてしまう厳しい現実に直面する時がある。自分だけが例外ではいられない。
人はなぜ苦しまなければならなのか、苦しみがどこから来るのか。苦しみからの解放はあるのか。と苦しみの中にある人は誰かに問いかけます。
人は誰でも、究極において名も知らない神にその答えを求め、叫ぶ。
「神よ、なぜですか?」
人の普遍的な「なぜ、人には苦しみがあるのですか?」という疑問に応じた聖書の答えは
「あなたが呼び求めている神は人の姿を取り、すべての人の苦しみを経験しながら自分を最後まで救わず、十字架の上で死を迎えた」という。なぜ、2000年前のイエスキリストの十字架の死が「なぜ、私の苦しまなければならないのか?」の答えなのですか?と再び問うかもしれません。
人に苦しみがあるのは、人には罪があるからです。すべての苦しみの根本は罪にあります。

2
聖書に描かれているイエス様の姿を私たちの受ける苦しみと共に、一緒に見てゆきましょう。
1. 彼には見とれるような姿が無かった。

エス様には人が見とれるような姿はありませんでした。
肉体的な容姿で人からさげすまれている人はいませんか。交通事故に遭い、突然手足を失ってしまった人はいませんか。重い皮膚病にかかり、人目をはばかり苦しい思いをしている人はいませんか。
2. 彼には輝きもなかった。

捕縛されたイエス様は少しも輝いていませんでした。屠り場に引かれていく子羊のように何も声を出さず、黙していました。
学校の成績がいつもびりで学校で一度も褒められたことが無く、周囲から注目されることも無く、劣等感の塊である人はいませんか。
3. 彼はさげすまれていた。

エス様はなんてみじめでおろかな奴なんだろう、犬みたいな奴だとさげすまれたのです。学校や職場で理由もなくいじめられて、差別され、陰口、悪口、仲間外れ、皆から辱めを受けている人はいませんか。
4. 悲しみの人であった。

エス様は、悲しみを経験されました。誤解される悲しみ、裏切られる悲しみ、憎まれる悲しみ、見捨てられる悲しみ、数々の悲しみを体験されました。
今、悲しみの中にいる人はいませんか。お父さん、お母さんに優しくされたことがない悲しみ。いつも家にだれもいない悲しみ。ご飯をおなか一杯食べたことがない悲しみ。戦争で家族が殺された悲しみ。迫害され、死の恐怖にさらされている悲しみ。ありませんか。
5. 病を知っていた。

エス様は自ら弱り果てると共に、人の病を知っていました。
病気で苦しんでいる人、不治の病で思い描いていた人生をあきらめなければならない苦しみの中にいる人はいませんか。
エス様はこのような人の苦しみ、悲しみ、孤独、飢え、渇き、病を経験しながら生きられました。
わたしたちが、「神様、あなたはどうして私に苦しみを与えられたのですか」と問うとき、
神はイエス様の姿であなたの苦しみを経験してくださっているという答えを用意して下さったのです。

エス様は苦しみを負いながら、その苦しみが取り去られることなく、十字架で死なれました。
十字架の死だけを見ればなんてみじめな生涯であったことでしょう。イエス様の姿を見るとき、人は顔をそむけます。私はこんな人生を送りたくない。どこかで、奇跡が起こって、生きている間に苦しみが瞬時に取り除かれたらどんなに良いことでしょうか。しかし、イエス様にも奇跡は起きず、十字架の上で息を引き取られたのでした。

2.イエス様の苦しみは私たちを救う。

 イエス様が苦しんで死んだだけで終わるなら、キリスト教に救いはありません。いったいどこに救いがあるのでしょうか。
4節、5節にその答えがあります。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。
しかし、彼は私たちのそむきの罪のために、刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」
聖書の言って意味は、イエス様が苦しんだのは私たちの苦しみを負うためであった。苦しみを負うて下さったがゆえに、私たちは苦しみから解放されて、癒され、平安が与えられるというのです。

3.どのようにしてイエス様は私の苦しみを負えるのか。

エス様の苦しみの姿の中に自分の苦しみを重ねることです。それを信仰といいます。
人は、災いを神のさばきだと思います。4節、当時の人々もローマ兵に鞭うたれ、十字架につけられたイエス様を見て、彼は神に罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと思いました。
しかし、そうでは無かったのです。
エス様は良い方で神にそむくことなど一度もありません。常に神に喜ばれ、神に愛され、神様の御心に生きた真の人でした。ですから、イエス様が神に罰せらっれるはずがありません。では、なぜ、
エス様は苦しみを受けられたのか、それは、私たち人の罪の苦しみを代わりに受けるためであった。
私たちは数々の不条理の中で苦しんで叫んでいるときに、イエス様の苦しみの姿に目を向けるため。

4.キリスト教の救いのゴールは十字架の死ではなく、死からの復活にあります。

 

聖書は、イエス様の十字架の死で終わりではなく、死んで三日目によみがえったと記しています。
  
  イエス様は人の罪の病を身に負われ十字架で死なれました。そして人の罪をすべて黄泉に葬りさられました。葬りさった後、新しい命に満たされて罪とは関係のない新しい復活の体でよみがえりました。
エス様を信じる者は、たとえ不自由な体、不自由な境遇にあったとしても、心には平安があたえられ、喜びが与えられ、天国の希望が与えられ新しく生きることができます。やがて、私たちにも復活の体が与えられ、飢えも渇きも苦しみも悲しみもない神の国に生きるものとなります。

2024.3.10 湘南コミュニティーチャーチ礼拝