主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。ルカ1章46,47節

神の恵みに応答するものとなる。


”マニフィカトは、「我が心、主を崇め」を意味します。
マリアは、エリザベトから『主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう』と励ましを受けた後に、このマグニフィカトを謳いました。
これは神様から頂いた恵みに対する応答でした。
1主をあがめる。
人のなすことのできる最高の行いは主への礼拝です。主をほめたたえることこそ、人に与えられた最高の特権です。
この詩は主への礼拝から始まっています。人に霊が与えられたのは主を喜ぶためであるのです。
わたしの魂は主をあがめ、
移り変わるこの世の栄華や他人との比較、自己賞賛、自己憐憫、自分自身に向かってしまいがちな私たちの思いや、感情や意志を主に向ける事こそ、私たちに与えられた喜びの源となります。
わたしの霊は
私たちは心の底から(霊から)神を喜びます。
マリアはこれから先自分にどのような人生が待ち受けていくかを知る由もありませんでした。しかし、マリアは、主が自分自身に目を留めて下さったことで十分でした。
2幸いな人 
マリヤは自分自身を幸いな者と言うことができました。
どこに幸いがあるのでしょうか。
・マリヤは自分自身を主のはしため、身分の低い者であると日々自覚していました。
・マリヤには天使の言葉をまっすぐに受け入れる素直さがありました。
・人の幸せは、人に認められるところにあるのではなく、私たちを造られた神に認められるところにあります。
そのことをマリアは私たちに教えて下さいました。
わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。
                             ヨハネ15章11節
3神の偉大さを言い表す。
マリアは神様がどれほど偉大な方であるか、神様の御名の尊さ、神様にこそ力があることを言い表しました。
私たちもイエス様の御名を言い表しましょう。
イエス様からいただいた恵みを褒めたたえましょう。
イエス様がどれだけ恵み深く、憐み深く、慈しみに富んだ御方であるかを言い表しましょう。イエス様の尊さ・偉大さを日々口ずさみましょう。
神がその愛する御子によって与えて下さった輝かしい恵みを、私たちがたたえるためです。                               エペソ1章6節
 私たちもマリアに倣って、神の恵みを数え、神の恵みを味わい知り、恵みに応答しながら主の御名を口ずさむ讃美の生活を続けていきたいと願います。

2025.11.30 茅ケ崎集会

主は永遠の神、地の果てまで創造された方。イザヤ書40章28節


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あなたは知らないのか。聞いていないのか。

主は永遠の神、地の果てまで創造された方。

疲れることなく、たゆむことなく、

その英知は測り知れない。

疲れた者には力を与え、

精力のない者には活気をつける。

若者も疲れ、たゆみ、

若い男もつまずき倒れる。

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、

鷲のように翼をかって上ることができる。

走ってもたゆまず、歩いても疲れない。


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見よ。世の罪を取り除く神の子羊。ヨハネ1章29節

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。

                                                                                  イザヤ45章22節

 


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イザヤ書 26:3-4 JA1955

あなたは全き平安をもってこころざしの堅固なものを守られる。彼はあなたに信頼しているからである。 とこしえに主に信頼せよ、主なる神はとこしえの岩だからである。

 

両親は幼子を主にささげるために、エルサレムへ連れて行った。ルカ2章22節

子供祝福式メッセージ

そしてイエスは子供たちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福された。マルコ10章16節

  1. 神はアブラハムを祝福された。ここから、神は人を祝福する神。人を祝福したいと願っている神であることを知る。創世記12章2節~
  2. なぜ神は人を祝福するのか、それは神は愛であるから。神は人によいものを常に与えたいと願っている。病や貧困や争いなどは神が与えたいと願っているものではない。
  3. 神は常に真実で良い御方であり、神の良いものを与えることは神のご性質である。

  1. 神はアブラハムを直接祝福した。イスラエルの民に対しては、モーセとアロンに祝福する権威を委ねた。民数記6章24節~
  2. 祝福されるのは神である。祝福の源は常に神にある。
  3. 『主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。』箴言10章22節
  4. アブラハムの祝福はキリスト・イエスによって異邦人に及んだ。異邦人である私たちも信仰によってアブラハムの祝福を受け継ぐ者となった。
  5. 最高の祝福とは神の御霊を受けることである。すなわち、罪赦されて神の子供となることである。ガラテヤ書3章14節

  1. モーセとアロンがイスラエルの民を祝福したように、親は子供を祝福する特権と義務を神より預かっている。
  2. ヨセフとマリアは幼児イエス様を神殿で神に捧げた。ルカ2章22節
  3. 捧げるとは、人身御供にすることではない。神に委ねて、神の祝福の中においていただくことである。
  4. 親は神の代理として子供を保護し、良いものを与え、育てていく義務がある。
  5. しかし、親も罪ある人間であり、不完全で弱く、過ちを犯す。それゆえ、子供を養い育てていくために神の助け、守り、導き、知恵を神に求める。
  6. 親は常に神に祈り求めながら子供を育てていく。
  7. 神は、親の祈りに応えて子供たちに神の祝福を注がれる。マルコ10章16節

  1. 今の混乱が激しさを増している世にあっても、子供たちが暗闇の力に巻き込まれず、光の子として歩むために私たち親は子供たちのために神の祝福を求めて祈りながら育てていきましょう。

2025.11.16 茅ケ崎集会メッセージ

わたしの父の家を商売の家としてはならない。ヨハネ2章16節

ヨハネ福音書2章13節から22節

覚書

1.神殿宗教による搾取と権益に対するイエス様の聖なる怒り。

旧約(律法)の動物犠牲の礼拝の終焉の予告

13節:過ぎ越しの祭りは春の第一の月(3,4月)に行われる。イスラエルの民がエジプトから脱出する直前、エジプトに下された10のわざわいの最後に『すべての初子を殺すという裁きが神より下された。しかし、小羊の血を鴨居と門に塗ればそのわざわいは過ぎこされるという約束を神はイスラエルにされた。イスラエルの民の家々は神の言われたとおりに家の鴨居と門に小羊の血を塗り、神の裁きを免れた。

三大祭:

過ぎ越しの祭り

五旬節の祭り(初穂)過ぎ越し祭から50日目

仮庵の祭り 第7の月の15日。

14節:宮の中とは異邦人の庭のこと。ユダヤ教に改宗した異邦人が入る庭

各地からの巡礼者が祭りに来る。すべての貨幣を神殿の貨幣シュケルに両替しなければならない。巡礼者は動物を買い、捧げなければならない。両崖人は暴利をむさぼり、

動物犠牲の売り上げは大祭司と家族の収益となった。

15節、16節:神殿礼拝の名のもとにはびこる利権による富を神とする偶像礼拝に対してイエス様は聖なる怒りを燃やした。

ゼカリヤ14章21節

21 エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、それで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。

17節:あなたの家を思う熱心:

詩編69篇9節; それは、あなたの家を思う熱心が私を食い尽くし、あなたをそしる人々のそしりが、私に降りかかったからです。

ダビデ王の神への礼拝に対する熱心さはそしりとなっていた。イエス様も父なる神に対する熱い情熱に満たされていた。

2.イエス様の十字架による死と復活の預言、新しい礼拝の始まり

18節から22節 

19節:ヘロデ王の神殿 ヘロデ王はローマの傀儡政権。ユダヤ人の反乱を抑えるために立てられた王。ヘロデはユダヤ人指導者たちの反感を和らげるために豪華な神殿を再建した。ネヘミヤのような神への真実な礼拝の心による再建ではない。

この神殿とは聖所、至聖所を指す。

21節:イエス様自身こそ礼拝の中心であり、対象である。

エス様の十字架と復活によって成就された罪の完全な贖いにより、動物犠牲は必要なくなり、イエス様を通して神への霊とまことによる礼拝の道が開かれた。

そこにはユダヤ人、異邦人の区別も無く、時も場所も関係なくイエスを信じるすべての者に開かれた礼拝である。

礼拝は動物を捧げるのではなく、自分自身を主に捧げるものとなった。その捧げるとは罪の代価としての捧げものではなく、罪赦された恵みに対する感謝の献身となった。

祈り

主よ、私の中にも聖なる礼拝、神への奉仕の中にどこか自分の利益と見返りと報酬を求める心が潜んでいることを教えられました。

純粋な心によって神の奉仕に当たることがいかに罪深い私にとっては難しいことか。

自己中心な自我、宗教、神への奉仕の名のもとに自分の利益を求めようとする心があることに気が付かされました。主よ、今、御前に罪を告白し、主の血潮による清めを信じ、求めます。主よ、どうか私の中に真実さをもって父の家を思う熱心を与えて下さい。

2025年10月25日 片瀬山、茅ケ崎集会

別稿

『新しい神の神殿』
19節『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる』
 
エス様がこの神殿を壊してみよと言われた時、イエス様の話を聞いたユダヤ人たちは、ヘロデ王が建てた今ここにある石の神殿のことを指していると思った。
しかし、イエス様の言われた意味は、ご自分の体のことを言われたのであり、『神殿を壊す』とは、主の体を十字架につけて殺すことを言っていた。イエス様の言わんとしていたところは、『たとえ私を十字架にかけて殺したとしても、私は、神の全能の御力によって、三日目によみがえる』ということを明らかにされたのであった。
弟子たちは、このイエス様の言葉を聞いた時にはその意味が分からなかったが、イエス様がよみがえったときには、イエス様がご自分の体のことを言っていたことに気が付きました。
 21節『イエスの言われる神殿とは、ご自分の体のことだったのである』
ここから、旧約聖書の時代に無かった新しい神殿の理解が始まります。神殿に対する神様の御心が示されました。
【神殿の機能】神殿とは、神と人の出会うところ、神の臨在されるところ、そして、人が神に礼拝を含めた祈りを捧げるところでありました。
【神殿の歴史】モーセの時代には、幕屋があり、そこが神殿の原型となりました。出33:7~
ソロモンにより神殿が建てられ、神殿を中心としたユダヤ教という一つの形が作られました。Ⅰ列8章、9章
神殿は、バビロンにより壊され、ペルシャの時代になって、神殿の再建がはじまり、
ローマ時代になり、ヘロデ王によって神殿が建てられました。
1
1:イエス様ご自身が神の神殿となられた。21節、黙示録21章22節
すなわち、イエス様ご自身こそ礼拝の対象であり、イエス様を通して、人は神に出会い、イエス様に祈る時、神は祈りを聞いて下さる。
2:イエス様ご自身が神殿となられたので、礼拝の場所の制限がなくなった。イエス様に対して、いつでも、どこでも、どのような時でも、霊とまことをもって礼拝を捧げることができるようになった。ヨハネ4章24節
2 私たち、人の体に聖霊が宿る神の神殿であることが始まった。そのことを知った。Ⅰコリ3章16,17節
 御霊の宿る神の神殿である私たち、それゆえ、

①   自分の体を大切に扱わなければならない

②   私たちの体を神に捧げることが、私たちのなすべき礼拝であるという理解が与えられた。

すなわち、ユダヤ人が神殿にいって捧げ物を捧げれば礼拝をしたと思っていたように、
私たちが日曜日に礼拝式に出席すれば礼拝をしたと思うのではない、
つまり、神を敬うということは、私たちの生き方を神に捧げて、神様の御用のために、用いていただくことが礼拝である Ⅰコリ6章19節、ローマ12章1,2節
3 信じる者たち全体において互いに組み合わされて神の聖なる神殿となる。エペソ2;21、4:16
 まとめ 

エス様を礼拝していればいいのだ
私たちも御霊を宿す聖霊の宮なのだ
それゆえ、自分の体を大切にしましょう
礼拝とは、自分の生活を神様にささげて用いていただくこと
私たち信じている人たちの集まり、すなわち、教会全体がを通して礼拝を捧げることが、大切なんだ。
 黙想 『三日で建て直してみせる』
もし、あなたが古い宗教的な誇り、あなたの拠り所となっていた神殿、すなわち、あなたの自我が砕かれることをあなたが望むなら、私は喜んであなたの古い神殿を壊す。そして、あなたが、そのような神殿が空しいものであったことを素直に認め、心砕かれて、新しい神殿が建て直されることを願うならば、私は3日のうちにあなたの内に新しい神殿を建て直すことを約束しよう。
私はあなたが、古い神殿から新しい神殿に仕えることを望んでいる。
私はあなたに新しい霊を授けよう。それは、私の心となる。
あなたが主イエスを拝むなら、主イエスはあなたの神となる。
 参照 哀歌3:1~、Ⅱコリント1:8~、エレミヤ31:4、31:28

 

その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。ヨハネ4章50節

ヨハネ4章46節から54節 

エスは彼に言われた。『帰って行きなさい。あなたの息子は直っています。』

その人はイエスが言われたことばを信じて、帰途についた。ヨハネ4章50節

宗教心から信仰心へ、しるしを求める信仰から御言葉信仰、さらに主ご自身を信じる信仰へ。

46節 高級官僚である王室の役人はこの世の富と栄誉に満たされて満足している人を象徴しています。しかし、彼にも息子の病という悩みがありました。

47節 彼は富と栄誉では解決することのできない問題に初めてぶち当たり、初めてイエスを求める心が呼び出されました。しかし彼にとっては息子を癒してくれるなら誰でも良く、彼はまだイエスを知りませんでした。 

48節 彼はイエスの癒しを求めてイエスの傍に来て、癒しを懇願しました。イエス様は役人の願いにすぐには応じませんでした。 

49節 イエス様の沈黙により、彼は苦悶し、その苦悶によって彼の心は少しづつ変えられて行きます。イエスは彼の心が自己中心的な宗教心から神に向かう信仰心へと変えられていく時を用意されたのです。 

 彼はイエスを主と呼ぶに至ります。その時主は初めて彼に応えます。 

50節 しかし、イエスの応えはさらに彼の信仰心を練り清める試練でした。彼はまだ息子の癒しを見ないとき、そしてイエスが息子の傍に来ないにも関わらず、イエスのことばを信じるか否かを試されました。この時、彼の心はすでに砕かれ、この世は息子の癒しにとっては無力であることを知らされていたので、彼は砕かれた心でイエスのことばを素直に信じるに至ります。それは御言葉を信じる信仰、そしてまだ見ずに信じる信仰、そして復活の信仰でした。 

51節 彼はイエスのことばを信じて帰路に着きました。彼が信じた時、主は御業を為されました。 

52節 彼の信仰はさらに成長します。息子の癒しを知った時、彼はイエスの御前にひざまずき、この方は真の神、まことの救い主であることを教えられました。その時、彼の心は主の御言葉を信じる信仰からさらに主ご自身を信じる信仰へと高められていったのです。 

役人は息子の癒しだけを求めてイエス様に近づきましたが、イエス様は役人の救いのために彼を信仰へと導き、彼がまず主を信じる者とされ、その結果として息子への癒しの業を為されました。

エス様の憐れみのまなざしは初めから家族全体に向けられていました。息子も家族も主の御業を見て、信じ、家族全体が救われたのです。

エス様は、予め救いのために選ばれた愛する者に目を留め、その人を信仰の高みへと段階的に導いて下さる良い牧者なる御方です。 

2025.9.28 茅ケ崎集会メッセージ要約

ネヘミヤ記9章 それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、憐れみ深く、怒るにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。9章17節

『それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、憐れみ深く、怒るにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。』9章17節


旧約聖書の神は罪を裁く厳しい神で、新約聖書の神は罪を許す恵み深い神だと思っている方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、旧約と新約の時代において異なった性格の二つの神がおられるわけではありません。天地の創造の初めから、神は愛です。神は唯一であり、憐れみ深い神、慈しみ深い神、真実で正しい神であることに変わりはありません。神は、アブラハムの契約に基づいて、神の民を守り導き続けてきた神です。
旧約の歴史において私たちが今日の聖書を通して知ることができるのは、神は真実で正しく、神の民を見捨てず見放さない神であるということです。
神はイスラエルの民をエジプトの奴隷から解放し、裕福なカナンの地を与えて下さったにも関わらず、彼らは再び、アッシリアバビロニアペルシャの奴隷となり、みじめな生活を送っています。
これはなぜなのか。ネヘミヤはイスラエルの歴史を通して自分たちの偶像礼拝を指摘します。しかし、同時にこれほどまで不信仰な神の民であるにも関わらず、神はイスラエルの民に対して真実を貫いて下さる方であることを知った時、ネヘミヤは、民に再び罪の悔い改めを促しました。
 神はクリスチャンに対しても憐れみ深く真実で正しい御方です。私たちが自分の悪の行いを認め、自身の不信仰を悔い改め、神に立ち返るならば、幾度でも不信仰の罪を許し神との交わりを回復してくださいます。

2025.8.24茅ケ崎集会メッセージ