主イエス・キリスト・御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。マタイ6章33節。

ソロモンは、主を第一とするために、礼拝のための神殿を建設した。そこで祈る祈りを天におられる神が聞いて下さるという信仰があった。(Ⅰ列5:5)彼の栄華は、結果として神が祝福として与えて下さったものである。彼は着飾ってはいなかった。

今日も、主イエス様のみを神とし、主にのみ仕えていくということが一番大切であることは変わらない。神を第一とするとき、神は生活の必要さえも満たして下さる。

ソロモンの時代と何が違うのか。「信じる人々の体が聖霊の宮、神の神殿となった。」こと。エス様は人のからだを宮と呼ばれた。聖霊によって、神は人々の内に宿られる。イエス様は、神を礼拝するために、地上に宮は必要ないと言われた。ヨハネ4:20-24。

教会は、全体として神の宮である。それは、この世において神の宿られるところである。1コリ6:19

神を第一とする生活、神を神として礼拝する生活、神の御言葉に聴く生活。

神の義であるイエス様に信頼し、期待し、愛する生活。そのことをイエス様は、ソロモンを模範として私たちに教えて下さった。

 

2020.4.26 茅ヶ崎集会建徳要旨

この方が死につながれていることなど、ありえないからです。使徒の働き2章24節

2020.4.12 イースターに寄せて

 

しかし、神はこの方を死の苦しみから解き放ってよみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。使徒:2章24節

 

人々はこの方を木にかけて殺しました。しかし、神はこのイエスを三日目によみがえらせ、現われさせてくださいました。使徒10章39,40節

 

今日、これほどの疫病が全世界を覆い、全世界の人々を同時に死の恐怖に陥れている世界を今まで見たことがありませんでした。台風や洪水、日照り、砂漠化などとはまったく違う災いが現れ始めました。

 

しかし、今こそ、イエス・キリストは死からよみがえられた。イエスは死に勝利した!!と高らかに宣言するべき時です。

イースターはまさに、イエス様が死に対するご自身の勝利を証明し、イエスが義であることを立証し、イエスが真の神、救い主であることを示すものです。

闇の力が死の力を振りかざし、人々を恐怖に陥れようとしても、

エスは死に勝利した!と高らかに宣言する者にこそ、闇の力に対する勝利があるのです。

 

エス様の復活は、ご自身を信じる者がすでに罪ゆるされ義と認められていることを保証し、信じる者がキリストにある復活の命を共に生きていることの土台です。

キリストの命の中に生きている者には、死の恐怖ではなく、平和と喜びがあります。絶望ではなく、希望があります。天国への希望があります。

疫病の恐怖の中にいる人々にとっても、イエス様は、私たちの避けどころであり、砦であり、信頼する神です。

 

今、イエス様はすべての人が罪を悔い改めて、イエスを罪からの救い主と信じて、永遠の命を得て、死の恐れから解放され、イエス様と共に喜びの人生を歩むことを願っています。

たとえ、どのような災いが襲い掛かろうとも、主の御名を呼び求める者は皆救われるのです。

エス様を信じましょう。

彼らは、イエスを十字架につけた。マルコ15章24節。

人の罪

群衆もはじめはイエス様がメシヤではないかと期待していた。奇跡の御業、その恵みの言葉、権威ある言葉に期待していた。はじめは期待して待っていたが、自分たちの期待通りに事を進めてくれないことに気が付き始める。

ついに、ユダヤ人の王としてローマ軍を追い払うどころかローマの兵隊に捕らえられしまった。奇跡によってローマ軍を追い払うのではないかという期待も外れた。

三日で神殿を立て直すと言われたイエス様の言葉もただの大言壮語に過ぎなかったと思われた。

律法学者たちもはじめは、もしかしてこの方がメシヤなのかと慎重に探りを入れていた。

しかし、やがて、自分たちの言動を批判するもの、自分たちが守り築き上げてきた宗教制度を批判するものであること、自分たちの体制が崩されることに危機を覚えた時、彼らの態度は一変した。

兵士たちもはじめは、イエスの力に期待していた。

しかし、何の抵抗もなく兵士に捕らえられ、目の前にイエスを見ると、ユダヤ人の王といっていた青年があまりにも弱弱しいことに驚き、

蔑み、軽蔑、侮辱の対象に成り下がってしまった。

力の世界に生きている者たちにとって無力な者は価値のない人間であった。

 

光に近づくほど、影の黒さも濃く映ります。

エス様が、無言で抵抗せず、罪のない姿で罪びとの前に現れるほど、一層人の罪が暴かれていきます。

 

人の罪とは、

神の御心を無視し、神の御心を尋ね求めず、

自分の心の思いのままに生きようとする人の心。

神に聞かず、自分の願いを実現していこうとする人の心。

 

私が、自分の罪をなげき、罪なきキリストの赦しを切実に希うように至ったのは、

 

私は、すでに洗礼を受け、イエス様が私を滅びの淵から救い出して下ったことを知ってました。イエス様を個人的な救い主として信じていました。

エス様は私にとって命でした。永遠の命の約束は確かなものでした。

しかし、イエス様が私の罪の赦し主としてイエス様を受け入れたのはそれから、4年ほどたってからでした。

 

 

主の御心を尋ね求めることなく、自分の願いを実現させようとしていた自己中心的な心の態度こそ、私の罪でした。

エスキリストを人生の中心として生きようとしていないことが私の罪でした。

この罪によって、私は神のさばきを受けるほかないと、

しかし、私は神の裁きを受ける事が恐ろしい、

いったいどうしたらこの罪が許されるのか。

それは、罪のない方はわたしの罪の身代わりとなっていただくほかない。

罪のない方はイエス様しかいない。

エス様だけがわたしの罪の身代わりとなって神のさばきを引き受けることができる。

エス様の身代わりだけが、神様の心を満足させることができると霊に教えられ、

エス様を私の罪の赦し主として受け入れました。

 自分の思い、考え、期待、願いだけが強すぎて、イエス様がそこにいることに気が付かない。そして、環境に不満をぶつけ、結局はイエス様に不満をぶつけてしまっていた私の罪。

 

エス様の御心を尋ね求めながら生きる事が大事であることを教えられ、

祈りの生活が始まりました。聖霊も受けました。

日々、福音を伝えることに熱心な毎日が始まりました。

しかし、それでもなお、振り返ってみれば、自己中心的な生き方を通そうとしている私の罪に気が付きます。

結局のところ、私が生きている存在そのものが罪であり、神の御心にそぐわないものであることに気が付きます。

自己存在そのものが罪であり、神のさばきに値することを知った時、

同時に、このような罪人を赦して下さるイエス様の救い、

エス様の憐み、

エス様の恵みに気が付かされたのです。

罪が増し加わるところに恵みも罪を覆いつくすように増し加わっていきます。

エス様の十字架による罪の赦しの福音は、

個々の過ちを赦すだけでなく、

御心を悲しませてしか歩むことのできない人間の愚かさをイエス様は知り尽くしたうえで、なお、人間の愚かさによって滅びに至るのではなく、

神の聖なるゆえに、神のご計画を遂行していくことのできる福音なのです。

罪の赦しの福音を教えられた者はなんと幸いなことでしょうか。

 

2020.3.22 茅ヶ崎集会建徳要旨

 

 

 

そういう人は多くの実を結びます。ヨハネ15章5節

ヨハネ15章1節から8節

信仰者の成長、実を結ぶクリスチャンへ。

 

16 キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。エペソ書

 

騒がしい世の中です。このような時、私たちの心も揺さぶられ、右に左にそれてしまいやすいですが、このような時だからこそ、イエス様にしっかりととどまっていく、つながっているということが大切であることを教えられ、御言葉を分かち合いたいと思います。

 

概要

 

エス様は信じるだけでなく、信じた者たちが豊かな実を結ぶ者へと成長していくことを願っている。そのための警告と励ましとその方法について語って下さっている。これは、すでに弟子とされている者へ積極的にキリストにとどまり、実を結ぶ者になりなさいという勧めです。

 

 

序論

この話でイエス様が伝えたかったことは、8節『多くの実を結ぶ』ということです。

そのために大切なことは4節『わたしにとどまりなさい』という勧めです。

私にとどまっていることの理由は4節『わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません』からです。

4節の御言葉は裏を返せば、5節『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない』から、ということです。

主を離れては何もすることができないという、神の国の働き、そしてまた、主の言われる実は、人に力によって結んでいくことは決してなく、そのすべてはイエス様から頂くものであるという自覚を痛切に感じてこそ、イエス様にとどまっていなければならないというイエス様の命令に心が開かれていくものであります。

 

本論

1節から2節

エス様はクリスチャンをブドウ畑に例えています。

エス様がぶどうの木であり、父なる神様は、ブドウを育てる農夫です。

イスラエルは、ブドウの生産地として有名で、イエス様が活動されていたガリラヤ湖の北部一帯はブドウ畑が平野、山全体に広大に広がるところだそうです。

2節には二つのことが書いてあります。

  • 実を結ばないものは取り除かれる。イエス様を救い主として信じることにより、私たちは、父なる神につながることができます。永遠の命を得て、枯れない枝となることができます。ですから、まずはイエス様を救い主と信じイエス様を自身の心の中に受け入れることが大切です。イエス様を信じていなければ、やがて、寄せ集められ、火に投げ込まれてしまいます。これは、6節に書いてあります。
  • つぎに、実を結ぶ者に対しての助言です。実を結ばない枝は、焼き捨てられますが、実を結ぶ枝に対しては刈込をなさいます。枝を切り捨ててしまうのではなく、もっと豊かに実を結ぶように、整えて下さるのです。刈り込まれることにより、不要な部分は切り取られ、痛みを伴うかもしれませんが、不要な部分が取り除かれることで、よりいっそう実を豊かな養分が送られて、実を実らせていくことができるように父なる神は私たちを整えられるということです。

 

もうきよい。

3節 1,2節を読み、自分は投げ捨てられてしまうのではないかと不安に思う弟子もいるかもしれません。イエス様は、この3節で、そのような不安に陥る弟子に対して、『あなたがたは、~もうきよい』と言われました。このきよいという意味は、綺麗なという意味ではなく、聖い、というすでに神の所有として区別されているという意味です。

ヨハネ13章10節。イエス様は弟子たちを自分の所有、羊として受け入れており、不要な枝として投げ捨てられることはないと改めて教え諭してくださっています。安心です。私につながっている枝であるからこそ、豊かに実を結んでいくことに心を向けるように弟子たちに促していると言ってよいと思われます。

 

とどまる

4節 とどまるという言葉には、関係を結ぶ、受精する、妊娠するという意味があるそうです。つまり、とどまるということはイエス様から流れ出る命と、しっかりと結び、つながり、命の受け渡しが行われているということだと言えます。イエス様から流れ溢れる命がわたしという器の中に結びあわされていくことがとどまるということではないかと思います。

枝は幹につながっていて当然であると考えますが、あえて枝が幹につながって離れないでいることをイエス様は語られている。これはどういうことでしょうか。

接ぎ木という栽培方法があります。実をよく結ばせるために、元の台木に挿し木をして増やしていく実を実らせていく栽培技術です。

ブドウもよく挿し木をして栽培される果物の一つです。

台木に挿し木がつながるためには、しばらくの間しっかりと結び合わせたところが動かないように固定しておく必要があります。静かに固定して待っていれば、自然に台木と挿し木は結び合わされ、台木からの栄養が挿し木した枝に流れ込むようになります。

つながる前に動かしたり、抜いてしまっては台無しになってしまいます。

 

『わたしを離れては、あなたがたは何もすることが出来ない』という自覚

5節

4節にも言われていますが、イエス様は、私たちのほうから『とどまる』という意志を持つことが大切であること、またそのようにイエス様と関わることを命じています。

枝は、幹につながっていて当たり前のように思われますが、あえて枝が幹につながっていて離れないようにする。私たちのほうからイエス様にとどまり続けるならイエス様もあなたがたの中にとどまっていて下さる。これは、イエス様が信じる者に無条件で与えられる永遠の命の実以上の実について語っていることに気がつかなければなりません。

永遠の命をいただいた者が、もう永遠の命をいただいているのだから、この世においては、自由に過ごしていてもいいのだと、日々の主ご自身のとの交わりの時を持たず、また礼拝にも出席せず、聖徒たちとの交わりにも参加せずにいて良いのではありません。

私たちに永遠の命が与えられたということは、神の子どもとしてよりいっそうイエス様と親しく交わることの特権が与えられたといってもいいと思います。イエス様との関係が与えられているからこそ、さらにイエス様に親しくとどまることを通して、豊かな実を結ぶように召されているのです。

『わたしを離れては、あなたがたは何もすることが出来ない』という自覚が必要です。

 

実とは何でしょうか。

実は食されるために結ばれます。良い栄養が供給された実は、味わい豊かな人々を喜ばせる実を結ばせます。

また、実は食されてこそ、鳥や獣やまた人の栄養となり、また実に含まれる種を周囲に蒔くことができます。実を通して種が蒔かれていく。

多くの実を結ぶことができれば、また多くの種が蒔かれていきます。

キリストに固く結びつき、キリストの内にとどまり続ける人々を通して、

周囲の者たちは、キリストを様々な形で食していくことになるでしょう。

 

実を食する。

実を食することについて、もう一つ最近、気が付かされたことは、

実がなることをいつかいつかと待ち続けることがすべてではなく、

実を私たちもまた食することができるということです。

『自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになるものは幸いである。』黙示録22章14節

私たちは、天にすでに実っているいのちの木の実を食する権利が与えられてます。

エス様が昇天されたときに、私たちもイエス様と共に天に座を設けて下さっています。

エペソ1章3節に『神は、キリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。』とあります。私たちは、すでに霊の祝福をいただく特権を得ているのです。

本来、人は、『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べて良い』創世記2章16節

と神様と言われていました。

園にある木はそれぞれ豊かな実を結んでいたことでしょう。アダムとエバはそれらの実を自由に食することがゆるされていたのです。

私たちクリスチャンは、イエス様の十字架による罪の贖いを通して、再び神と交わることのできる存在として再創造されました。これは言い換えれば、再びエデンの園に入ることが許されたことを意味し、また同時に、神の都にはいれる特権を与えられたことを意味しています。

御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。ガラテヤ書5章22,23節

私たちは、天の御座において、都の大通りにおいて、エデンの園において、

神ご自身によって供給されている豊かな果実を自由に食することが許されていると言えます。

御霊の喜びの実が欲しいのであれば、信仰によって、天の御座に近づき、そこで遠慮なく、喜びの実を食し、その喜びを自分の内に満たすことが許されている。

御霊の柔和の実が欲しいのであれば、柔和の実を食する。そうすれば柔和が私たちの魂の内に満たされていく。

 

結論

すでに実はキリストの内に豊かに実っているのです。

 

2020.3.8 茅ヶ崎集会 建徳要旨

2020.3.11東日本大震災から9年。午後2時46分ごろの虹。『わたしは雲の中に、わたしの虹を建てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる』創世記9章13節。

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宮城県名取市の震災メモリアル公園上空に虹がかかった=11日午後2時58分(撮影・鈴木雅之

聖書に、『わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それはわたしと地との間の契約のしるしとなる』創世記9章13節という言葉があります。

これは、有名なノアの洪水の後、神様がノアとの間に立てた約束です。

どのような約束かというと、

『すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない』創世記9章11節という約束でした。

神様は、ここで人を滅ぼさないという約束をノアに与えました。

ノアの後の時代になって、神様はこの約束を守るため、2000年前に救い主であるイエスキリストをこの世に送られました。イエス・キリストを信じることを通してすべての人が救われる、滅ぼされないことを確かなこととしてくださいました。

ドルカスがいっしょにいたころ作ってくれた下着や上着の数々を見せるのであった。使徒9章39節

使徒の働き9章36節から39節

あらすじ。

ヨッパは地中海沿岸の海沿いの町です。隣町のルダにまでペテロが宣教に来ていました。

ルダではペテロは脳梗塞で8年間も床についていたアイネやに出会い、アイネヤを癒しました。

ヨッパには、タビタという姉妹がいましたが、病気になって死に、遺体を屋上の間に安置しているところでした。

このタビタはやもめたちに多くの良いわざを施し、多くの人々から慕われていました。

隣町のルダにまでペテロが来ていることを知った弟子たちは、ペテロをヨッパに呼び寄せました。ペテロに来てもらえば、タビタも生き返ることができるかもしれないと考えたのでしょう。

ペテロが到着すると、やもめたちは一斉にドルカス(タビタ)がどれだけ多くの施しをしてくれたのかをペテロに報告したのでした。

 

普通なら、使徒であるペテロが来たならば、この人を癒してください!と皆で懇願するのではないでしょうか。しかし、ドルカスに世話をされたやもめたちはドルカスの死を受け入れつつも、

ドルカスがどれだけよい施しをしてくれたかをドルカスの良い思い出をペテロに伝えたくて仕方がなかったのです。

 

ペテロは、やもめたちの話を聞いたのち、

独りひざまずいて祈り、主はその祈りを聞いて下さり、ドルカスは生き返りました。

この出来事を見聞きしたヨッパの人々の多くは主を信じました。

 

報告

先日、長年教会で共に礼拝を守りともに奉仕をされていた一人の姉妹が天に召されました。姉妹を通して与えられた思いでの数々を胸に抱きながら今日の礼拝をいつもと同じように皆で守りました。

建徳の中で、この姉妹が愛していた礼拝賛美歌の歌詞『イエスは愛す嬉しさ われさえ われさえ イエス愛す嬉しさ わが身さえも』が紹介され、

この姉妹が『私がイエス様を愛していることが嬉しいのではなく、イエス様が私を愛してくれていることが嬉しいの』といつも喜びながら語っていたことを紹介してくださいましたが、私もいつもその証を耳にしていました。

確かにそうです。

まずイエス様が私を愛してくださっているから、私もイエス様を愛することができるし、愛されているから喜びとなり、溢れとなり、周りの人々への施しへとつながっていくのだと思います。

 

こんな私さえも愛して下さるイエス様、

こんな私さえも見捨てないで愛していて下さるイエス様、

こんなふうにイエス様を教えられている姉妹の信仰の姿を想います。

そこには、大切なのは私ではなく主様なんです。というとても大切なメッセージがいつも秘められており、私たちはそのメッセージを大事に想い、

このように姉妹をそして私たちをも愛して下さるイエス様の御名をほめたたえたいと思います。

2020.2.23 茅ヶ崎集会建徳。

 

モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。民数記21章9節

十字架にかけられたイエス様の予表としての青銅の蛇    

モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子もまたあげられなければなりません。ヨハネ3章14節

6節:罪の報酬は死であると聖書は言っています。私たち罪人は、肉体の中にある罪ゆえに滅びに定められています。

彼らは、人ひとりの神に対する不信仰により、彼らは蛇の毒によって死ぬことが定まってしまった。蛇はサタンを意味し、蛇に噛まれるとはサタンの武器である死を受ける事を意味する。

神を信じないことは罪であり、罪の報酬は死であり、滅びの道に向かうことを表している。

 

7節:人は、自ら義となり、聖となって救われることはできません。

彼らは救われるために蛇を取り去るという方法をモーセに願いました。

これは、人の中から罪を取り除くことにより生きる事ができると考えた人の知恵です。

しかし、人は生まれながらの罪人であり、この肉体の中にある罪を罪だけ取り除くことはできません。人は清くなって救われるのではない、きよくなって死を免れるのではない。義しい人は一人もいないのであり、聖い人も一人もいないのです。

8節:主は憐み深い方です。

私たちが神に言い逆らい、自分の犯した過ちによって滅びるほかないものであるにも関わらず、人々の叫びに耳を傾け、私たちを愛されているがゆえに、救いの道を提供される方です。

しかし、その方法は、人の願う方法ではなく、神ご自身が指定された方法によるのです。主は、モーセに『あなたは燃える蛇を作り、それを旗竿の上につけよ。すべてそれを仰ぎ見れば生きる』と約束されたのです。

9節: 青銅の蛇は個々の蛇を代表する

モーセは青銅の蛇を作った。一つの蛇を作った。これは、蛇をいくつも作るのではなく、ただ一つの模型を作った。これは、個々の蛇を代表したものである。そして、すべて蛇を象徴的にあらわしたものであった。

神様は、かまれた一人ひとりから蛇の毒を抜き去っていやしたのではなかった。毒は彼らの体の中にあった。しかし、毒が体に回っていても、青銅の蛇を仰ぎ見たものは生きることができた。青銅の蛇を仰ぎ見なかったものは死んだ。

神様が指定した救いの方法に従った者は生きることが出来た。

彼らは蛇の毒が体に回り、地をのたうち回りながらも必死で、旗竿の上につけられた青銅の蛇をみたはずです。彼らは、青銅の蛇というただ一つだけある蛇の模型を見た時にそこに自分をかんだ蛇がつけられていることを信仰の目で見る事を要求されたのです。

エス様はすべての罪人の代表となられた。

旗竿の上につけられた青銅の蛇とは、イエス様の十字架の上に乗せられている私たちの罪です。

青銅の蛇が、個々の蛇を代表していたのように、イエス様はすべての人の罪の代表となられました。

 救われるためには信仰を求められる。

 

神様はなぜ、人々を総ざらい救って下さらないのでしょうか。イエス様がすべての人の罪の代表として死なれたのなら、すべての人はイエス様の死によって滅びから免れてもいいと人は考えます。

青銅の蛇を見上げた者だけが救われたように、今も同様、十字架につけられたイエス様がわたしの罪を負って下さって死なれたということを信じ見上げる者だけが、滅びから命へと移されるのです。

 

エス様が私の罪の身代わりとなって十字架について下さったことを信じる者は救われるということを青銅の蛇の物語は私たちに教えてくれています。

2020.2.9 名古屋集会メッセージ要旨。