主イエス・キリスト・御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

はたして彼らは聞こえなかったのでしょうか。ローマ10章18節

神様は、人を偏り見る方ではありません。

また、神様は人の外見を見るのではなく内面を見ておられる方です。

神様は、常に全地を見まわし、心砕かれた者を探しておられます。

また、神様全知全能の方であり、不完全であったり、不十分であったりすることはありません。神にとっては全てが可能なのです。

 

最近、セカンドチャンス論という人は死んだ後にも福音を聞いて救われる可能性があるという間違った教えがキリスト教会にも流布されているようです。そして、多くのクリスチャンがその誤った教えの風に吹きさらされています。

エス様の教えは、こうです。

『全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます』

 

神様はそもそも人の外見を見てはおられません。その人の魂が砕かれているか、神を慕い求めている、探し求めている魂であるか、を見ておられます。

生まれつき目が見えないとか耳が聞こえないとか足が不自由であるとかという外見を見ているわけではありません。

心が砕かれているかどうかだけです。言い換えれば、罪を悔い、救い主を求める心をもっているかどうかを見ておられます。

神様は全能者です。心砕かれた者が地の果てにいたとしても、その人に福音を届ける方法を無限に持っておられます。

なぜなら、今は聖霊の時代であり、聖霊は全地に満ちておられるからです。

また、天使も神のしもべとして世界中に派遣されています。

あるジャングルの中に住んでいた人は、空の雲が十字架の形をしているのを見て救われました。

『その声は全地に響き渡り、そのことばは地の果てにまで届いた』ローマ10章18節

にあるとおり、福音の声は全地に響き渡り、すべての人に届いています。

肉体の耳が聞こえなくても、聖霊によって福音は耳の聞こえない人の心に届けられてます。

すべての人は生きている間に福音を聞くチャンスを平等に与えられています。

神様は人を偏りみない方だからです。

救われるかどうかは、この地上に生きている間に神様の御声に人が応答するかどうかにかかっています。

生きているときに、神の声に従うことのできなかった者に、まして死後に神の声に従うチャンスはありません。

死後の黄泉は、神のさばきを待つところです。

体に障害があろうと無かろうと関係なく、すべての人は心で信じるならば義とされ、信じないならば罪に定められます。

 

救いは神の選びと恵みです。人の権利として救われるわけでありません。

もう一度言います。救いは人の権利ではありません。神様からの一方的な憐みの心に拠ります。

そもそもすべての人は滅びているのであって、その滅びの中から理由はわかりませんが、選ばれて、恵みによって救われました。

もともと、滅びる存在ですから、なぜ滅ぼすのかと神に訴えることのできる立場ではありません。

しかし、ヒューマニズムは人には救われる権利があるかのように主張します。

 

神様は救われたクリスチャンに福音を伝える使命を託しておられます。

神様は、福音を伝えるように委ねた人々を私たちの前に置かれます。ですから、私たちの前に置かれた人々に福音を伝えることの使命を果たすことができれば十分であると思います。ある人は、多くの人に伝えることを委ねられたり、未開の地にまで派遣され伝えるように召される人もあります。ある人は、生涯にただ一人の人に福音を伝えるように委ねられることもあるでしょう。それぞれ、その人の器にふさわしく忠実に神の使命を果たせば、よくやった忠実なしもべよと天においてイエス様から褒められることでしょう。

私たちが出会うことのなかった人々については、聖霊様に委ねていればいいのです。神様は聖霊を通して全世界のすべての人々に福音を伝えておられます。

神様に落ち度があるということはないからです。

 

しかし、私たちは福音を宣べ伝えることに対して熱心でなければなりません。怠っていてはならないのです。全世界に出て行きすべての造られた者に福音を宣べ伝えなさいというイエス様の教えに忠実であるべきです。

 

 

 

あなたの年老いた母をさげすんではならない。箴言23章22節

あなたの年老いた母をさげすんではならない。箴言23章22節(新改訳)。

『戯れに母を背負いて、そのあまりに軽きに泣きて三歩歩まず』(石川啄木)。

強いと思っていた親がいつのまにか自分よりも弱くなっていることに気が付く日があります。親の変化を子供として素直に受け入れられる場合もあれば、いつまでも元気な姿でいてほしいと弱さを受け入れられない場合もあります。人それぞれです。神様は、人に齢を与えられました。誰でも幼き日から始まり、歳を重ね、神の御元に帰りますが、その変化の過程も全て神様の御手の中にあります。衰えという変化の中にも神様の摂理と慈しみを見ることができれば幸いです。

2019.9.15 敬老感謝会に向けて 茅ヶ崎集会 建徳要旨

私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。ヨハネ10章11節

私は良い羊飼いである。ヨハネ10章11節

エス様が私たちを愛している姿は、羊飼いの仕事に似ているよとイエス様はご自分を羊飼いに例えました。

羊飼いは

①自分の羊の名前を呼んで、

②羊を囲いから呼び出し

③先頭に立って

④牧場まで連れて行き、

⑤迷子にならないように見守り、

⑥野獣に襲われないように守り、

⑦また囲いの中に連れもどしてくる。そういう仕事をしています。

エス様は、私たちの長所も短所も全部知った上で愛してくださいます。それは、十字架の上でご自分の命を与えるほどに愛してくださっています。

悪魔に襲われて傷ついてしまわないように、命がけで守っていて下さいます。

道に迷っている時もイエス様が先頭にたって、こっちが安全な道だよ。こっちに歩いて来なさいと導いてくださっています。

エス様はこんな方ですから毎日イエス様に信頼してついていけば大丈夫なのです。

2019.9.8 茅ヶ崎集会建徳要旨

心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。 マタイ5章8節

心のきよい者は幸いです。マタイ5章8節

1:心のきよい人に与えられる幸いは神を見ることだとイエス様は言っています。

 ・人にとって幸いなことは、神の御顔を仰ぎ見て生きることです。これにまさる幸いはありません。

『私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために』詩篇27:4。と詩篇の作者は詩っています。

世の楽しみに満たされることよりも、素晴らしい幸いが神の民には用意されているのです。

私たちはどのようなときに神の御顔を仰ぎみるのでしょうか。

  • 礼拝において
  • 祈りにおいて
  • 御言葉において
  • 救いの完成において

 2:イエス様は私たちが神を見るためには、心の清さが必要であると言っています。

こころのきよさがなければ、神の御心を悟ることができません。御声を聞き分けることができません。

今日の朝、このメッセージを用意するにおいても、世の思いで満たされてしまった私の心の汚れをまずきよめていただくことを聖霊に願い求めてからでなければ、このメッセージを教えられることもありません。騒ぎ立つ心の雑念を鎮めてからでなければ、神の声を聞き分けることができません。

 3:清さとは何でしょうか。

この清さとは『ツァラートに冒されたものをきよめる』同8章2節で使われている言葉です。ツアラートに冒された者は、宿営の外に隔離され、神と人とから切り離される苦しみを負いました。ツアラートの汚れが取り除かれてから、彼らは民のもとにもどることが許されました。

エス様がマタイ5章で心の清さの必要性について言及されたのは、神の民とされた人々の日々の生活において、神を仰ぎ見て生きていくためには、清さが必要であることを指摘されました。つまり、心の汚れを清くする必要性です。

へブル12章14節には、『聖くなければ、だれも主を見ることはできません』と記されていますが、ここでは、『聖』という漢字が当てられています。『聖』とは、神の所有として区別されるという意味ですから、神を見るためには、人はまず罪赦されて、永遠の命を得てからでなければならないということをへブル12章14節は指していると思われます。

4:心を問題にされたイエス様。

エス様は心という外見では見ることのできない領域の清さについて言及され、人々の視線を自らの心に向けるように促されました。

『忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは、杯や皿の外側はきよめるが、その中は強奪と放銃でいっぱいだ。』23章25節。

5:心の清さを妨げるものがあります。

①汚れた思い、

②世に対する執着

③対処していない罪、高慢、憎しみ、恨み。

6:どのようにすれば心は清くなるのでしょうか。

根拠:エス様の血潮には心の汚れを清める力があります。

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。Ⅰヨハネ1章7節。

方法:イエス様の血潮によって清められることを信じ、望む心によって私たちの心は清められます。

『主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります』8章2節

決心:主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義から離れよ。Ⅱテモテ2章19節。

きよさに常にあずかるためには、自ら不義を離れる決心もまた必要です。

心を汚す誘惑は常にあります。退けようとしてもしつこく追いかけてくることもあります。しかし、それだけではなく、自ら汚れを楽しみ汚れをもたらす不義から離れようとしていないこともあります。

7:清めを求めるのは、自分自身のためだけではありません。

『ですから、誰でも自分自身をきよめて、これらのことを離れるなら、その人は尊いことに使われる器となります。すなわち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。』Ⅱテモテ2章21節。

清さを求めるのは、主の御用に与る者となるためです。神様の目は節穴ではありません。全世界を常に見まわし、主の御前に心を整えている者を探しておられます。

2019.8.25 茅ヶ崎集会メッセージ要旨。

 

 

 

 

 

 

 

ヨハネ3章16節

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 
1.        この聖書の御言葉は小聖書といわれることがあります。それは、聖書が書かれた目的が端的に記されているからです。
2.        この福音書は弟子のヨハネが書きました。他にもマタイ、マルコ、ルカという弟子が福音書を書きました。福音書は、イエス様の生涯の記録です。十字架にかかり、よみがえり弟子の前で天に挙げられたところまでを記録しています。イエス様がどう生きたか、何をしたか、何を話したかが記録されています
3.        それは、のちの弟子たちにもイエス様のことを伝えたかったからです
4.        聖書は書かれた目的は、エス様を知って、イエス様を信じてほしいという願いからです。
5.        では、御言葉を見てみましょう
6.     神様はどのような方でしょうか。
 
7.        世を愛された。
8.        ここに神様は、愛する方だと書いてあります。神様は、人を愛する方です。
9.        ゆえに私たちは神様に愛されています。生まれる前から、生まれてからも、死ぬときも、ずっと愛されています。私たちが知らなくても、どんな時でも神様は私たちを愛しています。
 
10.   ひとり子をお与えになったほどに
11.    どのくらい愛されているのでしょうか。イエス様を与えるほどに愛しています。
12.    私は愛されるために生まれてきたということを忘れてはいけません。
13.    私たちの人生の目的は、神に愛され、神を愛し、人を愛することです。このことも忘れてはいけません。
 
14.    ひとり子とはイエス様のことです。
15.    お与えになったとは、イエス様をこの世界に送ったということ。
16.    私たちのために命を与えたということです。
 
17.    なぜ、私たちを愛している神様はイエス様をこの世に送られたのでしょうか。
18.   ひとりとして滅びることなく
19.    この御言葉の後半には、「滅びる」という怖いことばが入っています。
20.    滅びるとは、天国にいかず地獄にいくということです。地獄は神様の愛が届かないところです。
21.    なぜでしょうか。
22.    実は人は神様に愛されているにも関わらず、神様の逆らって生きてきました。
23.    このことを罪といいます。
24.    どんな人でも罪があります。神様に反抗する心です。
25.    罪は、神様と人との間に壁を作ってしまいました。
26.    この罪のために、人は神様に愛されているにも関わらず、神様に愛されていることを忘れて生きてきました。神様を愛することを忘れ、自分勝手に生きてきました。
27.    この罪のせいで、人は神様から切り離されて、やがて滅びてしまう運命に定められてしまいました。
28.    神様は、この罪を憎みました。この罪をもたらした悪魔も憎みました。
29.    神様は、罪のせいで滅びてしまう人間を憐れに思いました。
30.    そこで、神様は人を滅びから救う計画を立てました。
31.    その計画は、救い主を人の世界に送るという計画でした。
32.    その救い主となったのがイエス様です。
33.    この救い主であるイエス様を信じれば滅びなくてよいという約束を神様は決めました。
 
34.   御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、
35.    ここには、ひとりとしてという言葉が入っています。大切なことばです。
36.    エス様を信じる人は全員、みんなということです。
37.    僕もイエス様を信じているけど、宿題はやらないし、お母さんの言うこと聞かないし、友達の悪口も言うし、僕は信じていても滅びてしまうのではないかなあと心配している人もいるかもしれません。
38.    心配いりません。
39.    エス様を信じていれば、どんな悪いことをした人でも、例外なく、滅びないという神様からの約束です。
40.    滅びないためには、イエス様を信じればいいということを忘れてはいけません。
 
41.   永遠のいのちを持つためである。
42.    エス様を信じるとき、滅びないだけでなく、もう一つ、神様からの大切なプレゼントが約束されました。
43.    それは、永遠のいのちです。
44.    永遠のいのちとは、神様とおなじ命ということです。
45.    エス様を信じるとき、プレゼントとして神様の命をいただきます。
46.    神様の願いは、神様と人が一緒に暮らすことです。
47.    エス様を信じて、永遠に神様と一緒に暮らしてゆきましょう。。
 2019.8.11 茅ヶ崎集会メッセージ要旨

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。使徒1章8節

11節を読むと、イエス様の再臨の約束が記されている。弟子たちは、この約束を聞いた。
エス様の生涯、十字架、復活、そして再臨というイエス様の大切な神の計画を教えられたのだから、もう十分ではなかったのではないか。
私たちも、この四つについていつも学んでいればそれで十分ではないか。そう思います。いや、ほかになにか有るのだろうかと思う人もいるかもしれない。

実は、復活と再臨の間にある、非常に大切な神様のご計画について私たちの意識から抜けてしまいやすい大切なことがある。
何でしょうか。一言でいうと、教会です。
主の再臨までの間にあるのが、教会生活です。当たり前のように思われるかもしれませんが、私たちはこの地上にいる間、教会生活を送っているのです。
この教会生活を導かれるのが聖霊です。

主イエス様がいれば十分ではないかと思われるかもしれない。私もそう思うところがあります。
しかし、その主イエス様が父の約束を待ちなさいと言われたのが、この聖霊なる神様です。この聖霊なる神様が来られるのを待ち望むようにと言われたのです。ですから、私たちの主であるイエス様の言葉に聞き、信じたいと思います。

それは、クリスマスのように救い主が来られるのを待ち望む民のようにです。
エス様は天に昇られ、地上での教会生活の導きをすべてこの聖霊なる神様に委託されました。
それゆえに、この聖霊を待ち望むこと聖霊を受けること、聖霊に満たされることが必要なのです。

聖霊なる神様を意識することが大切です。聖霊なる神様は鳩のように素直な御方ですから、無理強いはされません。
エス様を信じる者にイエス様が救い主としてご自身を表わされたように、聖霊なる神の存在を信じる者に聖霊なる神様はご自身を現わされます。

私たちは、聖霊を信じていないわけではありません。
多くのクリスチャンは、天地創造の時に、聖霊の御働きがあったことを信じています。
エス様が聖霊によって乙女マリヤの体内に身ごもったことも信じています。
すでに私たちの中に聖霊の証印が押されていることも信じています。
聖霊が与えられていることを信じています。
聖霊によって御言葉が開かれることも信じています。

使徒18節の約束は、
on youです。すでに私たちは、with you   in you の聖霊を受けています。

私たちが信じなければならないことは、聖霊の働きです。聖霊の力です。
教会を導かれる聖霊の御業です。聖霊が臨むとき、異言がおこり、預言がされ、奇跡が起こり、病がいやされ、私たちの人格が新しく造り変えられます。
福音が宣べ伝えられます。

福音は無理矢理伝えるのではありません。福音を伝える機会が開かれていくのです。
人々の心が変えられます。
今まで全く主を拒んでいた人々の心が不思議なように開かれて、救い主を求めるように変わります。
教会に全く関心のなかった人々が教会に関心を持つようになり、教会に人々が導かれるようになります。新しく、遣わされるようになります。
新しい働きが始まります。不思議なことが起こり始めるのです。
これが、使徒行伝です。
 
ペンテコステは、この教会の始まりであります。

2019.6.9 茅ヶ崎集会

あなたがたは、主キリスト・イエスを受け入れたのですから、キリストに結ばれて歩みなさい。コロサイ2章6節。

キリストに結ばれて歩む。
エス様を信じるということは、イエス様の十字架の死と葬りと復活を私たちも霊においてすべてイエス様と共に体験していくということを意味しています。特にコロサイ書で強調されていることは、私たちはすでにキリストと共に復活させられているということです。復活した者はもうこの世を支配している諸霊とは何の関係もありません。

世の中にはさまざまな宗教哲学があります。これは、キリスト教イスラム教、仏教など宗教として公然とした形をとるものだけではありません。
気の世界やヨガなどのスピリツアルな世界にいのちを求めている人々は大勢います。武道などの世界や健康食品や自然崇拝者もたくさんいます。
政治活動に傾倒している人々も大勢います。アイドルやスポーツに熱狂し、旅行を趣味としている人々も大勢います。学問に没頭している方々も大勢います。
しかし、これらはすべて世に属するものであって、人に永遠の命を与えるものではありません。
私たちもかつてはこれらのことにはまり込んでいたかもしれません。

しかし、イエス様を信じた今は、私たちの命がどこから来るかを教えらました。
世の中から離れて生活していくことはできません。けれども、世の力からは自由となりました。
クリスチャンは、天を見上げ天の御座におられるキリストにしっかりと結びついて生きていくのです。
2019.5.26 茅ヶ崎集会 建徳要旨