主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

慰めよ。慰めよ。わたしの民を。イザヤ40章1節

すべての谷は埋め立てられ、
すべての山や丘は低くなる。
盛り上がった地は平地に、
険しい地は平野となる。
このようにして、主の栄光が現されると、
すべての者が共にこれを見る。
主の口が語られたからだ。イザヤ書40章4節、5節。

私たちは、失うことを恐れます。失うことは敗北だと感じてしまいます。
失ったものが大切であればあるほど、失ったものをもう一度与えることができないことを私たちは知っています。
だから、
大切なものを失ってしまった人に、どのように言葉をかけてよいのか分からず、
戸惑いを覚え、
失った人への慰めの言葉を私たちは失ってしまいます。
 
しかし、主は私たちを慰めることがおできになります。
そして主の慰め方は人の慰め方とは異なります。
人は与えることによって、慰めようとしますが、
主は失わせることを通して、慰めようとされます。
 
人が大切にしていた全てのものを失っても、なお、残るものがあることを主は教えてくださいます。
人が、やがては消えていく目に見えるものから目を離し、決して失われない目に見えないものに目を注がれることを主は願っておられます。

『草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ』(イザヤ40章8節)

そうです。神の言葉は決して失われることはありません。
人がすべてを失っても、人に対する神の愛は永遠に変わりません。
私たちは目に見えるものではなく、目に見えなくても永遠に続く神の国に目を注ぎます。
この地は震えますが、私たちの受け継ぐ神の国は、決して震われることがありません。
 
エス様の十字架の御死は私たちの罪のためです。
エス様は私たちの罪のために苦しみを受けられました。
エス様が十字架の上で流されている血は私たちのため。
エス様の傷ついた御体は私たちの癒しのため。
エス様は十字架の上で死なれましたが、三日目に死からよみがえられた方です。
 
さあ、今、イエス様を見上げましょう。
エス様の傷ついた姿を見つめましょう。
そこに、私の傷があり、私の痛みと悲しみもあります。
 
エス様の十字架のお姿を見上げる時に、必ず、あなたに慰めが注がれます。
どれだけ、大きな喪失であったとしても、何もかも失っていたとしても、
主はあなたを慰め、あなたを助け、あなたを支え、あなたに命と希望を与えてくださいます。
主はあなたに、今日も、そして明日も生きる力を十字架の上から注いで下さいます。感謝です。
 
2011.3.11