主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

私の苦しみの身代わりとしてのイエス様

メモ

本来、罪のないイエス様には苦しみを受ける理由はない。

エス様が苦しみを受けられたのは、すべて罪あるゆえに私たちが受けなければならない苦しみ、また悪の力によって私たちが受けざる負えない苦しみの身代わりとして受けて下さったことを信じる。

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。イザヤ53:5

 

エスは悲しみもだえはじめた。マタイ26:37

エス様は自身のこれからの苦難を思い、愛する弟子たちと離れなければならない悲しみに悶え始めた。弟子たちは、いまだに主がこれからどのようになるかを知らない。

自身の死を知る母親が幼い子供たちのいくすえを案じ、自身が子供たちの成長を見守れない悲しみ、子供自身に母親がいなくなり、悲しむ姿を想像するときの悲しみ、その子供たちの悲しみを自身が慰めることのできない悲しみ、愛するものとの別れは悲しみを生む。

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。マタイ26:39

受けなくてはならない苦難であることを十分しりつつも、なおこの苦しみが取り去られるように祈られるイエス様。

私たちの受ける苦難に対して、周囲はもうあきらめなさい、覚悟を決めなさい、だれでも経験することだ、あなただけじゃないなどと励ますかもしれない。

しかし、人は本心ではこの病が治ってほしい、取り除いてほしいと願っている。

そのように願うことがあたかも往生際が悪いと他人はいうかもしれない。

しかし、イエス様のような方でさえ、この杯を過ぎ去らせてくださいと恥ずかしげもなく神に祈り求めたのだ。

私は、イエス様のように祈っていいのだ。心の底から神に病の癒しとその苦難を過ぎ去らせてくださいと祈っていいのだ。

一時間でも、私といっしょに目をさましていることができなかったのか。40節

エス様は一番、祈りの友を必要とする時に肉の弱さのために一緒に祈ることのできなかった弟子たちを見る。イエス様は一番の苦しみをだた一人祈るほかなかった。

私たちは祈ってますと苦難の中にある人に声をかける。しかし、他人はどれほど他人のために祈り続けることができるのか。

一番一緒に祈っていてほしいと願う人と一緒に祈ることができない苦しみと悲しみ。

私たちも人の祈りは励ましになる。支えになる。しかし、自身のことは自身がただ一人祈らなければならない孤独、祈りの戦いがあることを知る。しかし、その時、イエス様もただ一人祈りの戦いに臨まれたのだ。

どうしても飲まずには済まされない杯でしたら、どうぞみこころのとおりになさってください。42節

みこころのとおりになるということは苦しみが自分に襲い掛かってくることを意味する。みこころの通りとは、受難をさけられなくなることである。

この決断をするには父神への信仰を必要とする。

この決断は父なる神と一対一で向かいあい、最後は一人で答えを出さなくてはならない。みこころを受け入れるというまでにどれほどの祈り、葛藤があることか、

悩みと苦しみを味合わなければならないことか。

しかし、イエス様もこの祈りと、葛藤を味わわれた。

彼らはまたも眠っていた。43節

他人を当てにすることのできない限界、人の限界を知り悲しみに沈むイエス様。

私たちもお互いに人の肉の弱さと限界を知る時がある。自身でさえ、祈らなければならないときに、体調不良や気力の低下で祈れない時がある。

しかし、イエス様だけは最後まで祈り続けられた。

わたしを裏切る者が近づきました。46節

エス様は身近ないつも一緒に生活をしていた者に、愛していた弟子に裏切られる苦しみにあいました。

信じていた者に裏切られるという悲しみ、苦しみ、痛みもとてつもなく大きなものです。裏切る者が近づいてくるとはなんと恐ろしいことでしょうか。自分を罠にはめることをわかっていながら避けることができない苦しみ、

エス様もそのような苦しみを味わわれました。

そのとき、群衆が来て、イエスに手をかけて捕らえた。50節

エス様と何の関係のない群衆、イエス様に癒されたことも話を聞いたこともないような群衆、祭司長たちにただ扇動されてイエス様を捕えに来た群衆たち、

エス様はその背後には祭司長、長老たちがいることを知っていました。しかし、彼らは直接自分たちの手を汚そうとはしません。

ユダはイエス様を裏切るためしらじらしい挨拶をします。

人々の策略、謀略、わかっていてもだれも自分を助けることのできない無力感、失望、絶望感、悪の力が勝利したように思える瞬間、外的な暴力よりもこのような人の心の悪による暴力はどれほど人の心をずたずたに引き裂くことでしょうか。

エス様はこのような苦しみを味わいました。

それは、私たちがこの世の世界で味わう同じ苦しみを味あわれたのです。

そのとき、弟子たちはみな、イエスを見捨てて、逃げてしまった。56節

自分たちも捕まるのではないかと恐れに捕らわれた弟子たちは皆、イエス様を捨てて逃げてしまいました。

それはイエス様が「もしわたしを捜しているのなら、この人たちはこのままで去らせなさい)と命じられたからです。彼らはイエス様の言葉に従うほかありませんでした。

エス様は自ら敵の手に身を委ねましたが、それはイエス様が弱かったわけでも悪に負けたわけでもありません。依然としてイエス様には神の子としての権威を保っておられたのです。

父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。ヨハネ18:11

ここには、もう苦難を避けようとするイエス様の姿は無く、自発的に苦難を負うイエス様の信仰が現れています。

積極的に苦難を負うしもべの姿です。

平手でイエスを打った。ヨハネ18:22

敵に身を任すイエス様。相手のほしいままに暴力を受けるイエス

縛ったままで。ヨハネ24節

エス様は身体の自由を奪われる苦しみを受けられました。

今、世界には無実の罪で身体を拘束され苦しんでいる人々がどれほど多くいることでしょうか。無実のまま、時の政治の権力に捕まり拘束され裁判にかけられ有罪判決を受ける迫害を受けている人々がどれほど多くいることでしょうか。

エス様はそのような状況に置かれている人々の苦しみのために、捕縛されました。イエス様も同じような苦しみを受けられたのです。

エスは、どんな訴えに対しても一言もお答えにならなかった。マタイ27:14

エス様は自分に不利な証言がなされていることを知っているのに、その不利な証言は自身を十字架刑に向かわせることを知っているのに、何一つ自己を弁護しませんでした。

相手が間違っていること、訴えが不当であることを知っているのに、私たちは黙っていることができるでしょうか。

しかし、もう何を弁解しても自分の受ける道が決まっていることを知っているとき、覚悟を決めて何も言わないという選択を、信仰によってすることもあるでしょう。

不利な証言を耐え忍ぶ苦しみ、黙することの忍耐、このような苦渋を経験する時、

エス様も同時に私たちのこの苦しみを受けてくださっている。

彼らは言った。バラバだ。21節

十字架刑を免れる最後の望みを絶たれたイエス様。

このとき、イエス様は命乞いをしようとは微塵も思っていなかった。

しかし、イエス様の代わりにバラバが釈放されたことにより、イエス様の十字架刑は確定した。バラバを釈放したのは長老たちに扇動された無知な群衆たちであった。

フランス革命の時代、また共産党の時代、そして今も群衆の声に扇動されて無実の罪を押し付けられて死に追いやられる苦しみを経験しなければならない平和を追い求める人、義を追い求める人がどれほど多くいることか。彼らの苦しみをイエス様は身代わりとして味わった。

エスを鞭打ってから、26節

 

祈り

エス様、私たちは数えきれないほどの悲しみと苦しみがあります。

その苦しみを孤独の中でただ耐えるほかない場合も多々あります。

苦しみの意味を見出すことのできないゆえに苦しまなければならいこともあります。

その苦しみの理由がわからず、神様、なぜですか?と叫ぶほかありません。

 

そんな時、イエス様が私たちのために苦しんで下さったことを知り、信じます。

私が孤独であってもイエス様は私の孤独を共に経験し、苦しみを共に担って下さいます。

エス様が苦しみを担い十字架の苦しみを負い、死んで復活して下さったゆえに、

私の苦しみには終わりがあり、苦しみの後には解放があることを信じることができます。

受難週にイエス様の苦しみを覚えるのは、その苦しみは私たちが経験する苦しみだからです。

 

勧め

自身に降りかかる苦しみはなんのためにあるのか。それは、今までイエス様を知らないで生きていた人がイエス様に心を向けためである。

エス様を信じる時、苦しみの奥に神の平安を受ける。

人の傲慢さは苦しみを受けなければ神を求めようとしない。

苦しみを通して、人は神を求め始める。

その極限において、自身で苦しみを解決できないことを知る時、

神に助けを求める。

人の姿をとった神であるイエスキリストは確かに十字架の苦しみの過程の中であなたが今体験している苦しみを負われた。

 

エス様の中に自分の苦しみを体験して下さっているイエス様を知り、人はイエス様が私の個人的な救い主であることに気が付くためにある。

エス様を信じたからといって、苦しみは取り去られるのであろうか。

癌の病は癒されるのであろうか。愛する人は戻ってくるのであろうか。聖書は約束する。

あなたの受難の奥に必ず平安が生まれる。どんな平安か。

それはこの世が与える平安ではなく、この世のものとは異なる確かな平安である。

受難はこの神が与える平安に至る道に過ぎない。神が与える平安を得たならば、

癌の病も愛する者の死の意味も知れるようになる。

エス様ご自身を知る平安にまさる平安は無く、世のどんな苦しみも嘆きも超越するものである。神はこの平安をあなたに届けたいと苦しみという恵をあなたに賜った。

 

2024.3.23 片瀬山集会 3.24 茅ケ崎集会 受難節