主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

私の羊を飼いなさい。 ヨハネ21章9節から17節

ペテロに対する主の再召命。

私たちは誰でも主に従うことに失敗をしてしまう者です。主を信じて、主を喜んで主に力いっぱい従って来たはずなのに、こんなはずではなかったと悔やまれるような辛い悲しい経験をすることもあります。
ペテロと同じように、世の権力の力に圧倒され、またサタンの敵意に満ちた激しい脅しに屈服し、主を知らないと裏切ってしまい、涙を流す時もあるかもしれません。
すべてを捨てて主に従ってきたけれども燃え尽きてしまい、もう主に従う元気も全く失ってエリヤのようにうつになってしまう時もあるかもしれません。
聖書を語る立場にありながら大きな過ちを犯し、私にはもう聖書を語る資格はありませんと嘆くこともあるかもしれません。

ただ、今日の聖書が私たちに教えて下さることは、
主は私たちを見捨てはしない。主は私たちを裁いてはいない。神の賜物と召命は変わることがありません。という神様からのメッセージです。

ですから、今日、特に話に耳を傾けてほしいのは、主に従うことに失敗し意気消沈している聖徒の方々
、また、まだ大きな試練に遭っていなくても、やがて遭遇する大きな試練の中で主を信じる心を失ってしまうような境遇に陥る時も、
大丈夫、主は私たちを見捨てたりはしない。主は私たちを裁いてはいない。神の賜物と召命は変わることがありません。ということを覚えていていただきたい。

要点
1.神の賜物と召命は変わることがありません。ローマ11章29節
2.神に用いられるためには自我が砕かれる
3.原罪の赦しを受ける
4.恵みによって愛されることによって立ち上がっていく。

 

1.神の賜物と召命は変わることがありません。ローマ11章29節

3節:しかし、その夜は何もとれなかった。
エス様との3度目の出会いは、彼らの失望から始まった。

彼らは復活のイエス様に出会っていたが、目標を見失っていた。彼らは再びガリラヤをイエス様と宣教旅行することをイメージしていたであろうか。
ここには、意気揚々とイエス様を待ち望んでいる彼らの姿は見えない。それは彼らの心の中に主を見捨てて逃げ出してしまったという後悔の念が心に残っていたからである。どのように主に向かうことができるのか彼らも分からなかったのである。
ただ、一度主に呼ばれ主に従い主と共に歩んだ者は、主と離れてかつての職業にただ戻ることはできない。
どこかで常に主が意識され、主とともに歩んだ宣教旅行の驚きと主とともに経験した喜びが心のうちに残っている。どこかでもう一度主に仕えて歩みたいという願いが消えかかる燈心の炎のようにゆらいでいる。

ガリラヤにつき、イエス様の姿を捜したがどこにも現れない。ガリラヤの湖を眺めながら、待てども待てどもいつイエス様が現れるかも分からないまま、時が流れていくのを感じて、彼らはもう一度漁に出ることを選ぼうとしてた矢先であったと思われる。

ガリラヤに戻ってきた弟子たちはまた以前の生業である漁師の仕事を再開した。
夜通し働いたが、何も取れなかった。
しかし、岸に立つ一人の男性が彼らに呼びかけ、網をおろす場所を指定された。そこに網を降ろすと大量の魚が網に入った。
この奇跡を目の当たりにして、彼らは言葉をかけ、そして大量の魚を与えられたのはイエス様であると悟った。
エスの言葉なしに彼らの働きは実を結ばないことを示された。

ペテロがイエス様に弟子になるように呼びかけられる直前、彼はやはり漁をしていたが何も収穫が無かった。その時イエス様に網をおろしなさいと呼びかけられ、イエス様の言われる通りに網をおろすとおびただしい魚がとれるという体験をした。
ルカ5章4から6節「そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。
彼らの沈んでいた心にイエス様と最初に出会った原体験ともいうべき奇跡をもう一度再体験する機会が与えられ、彼らの沈んでいた心は元気を取り戻そうとしていた。

神の召命に従って歩むには、働きのすべては神の祝福によって実を結ぶことをここでも示したのだ。

自分の功績を誇るうちは神の働きは始まらない。神の召命に生きるためにはそのことを身をもって学んでいることが重要なのだ。

エス様は彼らに出会いの原点を思い起こさせていた。

エス様はヨハネの子シモンを見て、将来、人をとる漁師、群れの牧者となる器であることを見抜き、彼を弟子として招いた。
私たちが救われたのは、ただ罪を許し神の子供とするためだけではなく、神の目的がある。
賜物と召命を与えるために、神の働きに参与する器となるために弟子として招くのだ。
「あなたは人間をとるようになるのです」

2.神に用いられるためには自我が砕かれる。誇りが失われ、弱さ、人の限界を知る。
9節:そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
ペテロは本気で自分はイエス様につまずくことはないと自分を信じていた。
「たとい、全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません」マタイ26章33節
「わたしはあなたを知らないなどとは決して申しません」35節。と本気で自分を信じていた。
しかし、全議会の前でイエス様が死刑判決を受けることを知ったのち、彼は怖くなり、イエス様を三度も知らないとのろいながら誓いを立ててイエス様を否定した。

エス様を否定したとき、ペテロは役人たちといっしょに「炭火をおこし、そこに立って暖まっていた」
ペテロはイエス様が用意して下さった炭火を見て、自分の裏切りがフラッシュバックされる中でイエス様とともに食事をした。

彼は炭火を見つめるとき、
彼は自分の情熱や自信、決心、誓いががどれほど当てにならないものか、窮地において人は神を裏切る存在であるのかを教えられた。ペテロはイエス様の十字架を前にして、自我が砕かれ、自分は罪を他の弟子たちのように弱さの中で主を裏切るような罪は犯さないと自負していたにも関わらず、自分も神の前で罪人の一人に過ぎないということを教えられ、彼は砕かれました。

これは人の原罪と言われるものである。人がどれだけ最善を尽くしたとしても神の義には到達することはない。ペテロはこの時、自信の罪深さ、神に有罪判決を受けても何一つ弁解する余地の無い罪深い人間であることを知った。
砕かれてこそ、人ははじめて神の賜物と召命に生きることができるのです。

3.原罪の赦しを知る。

12節;さあ来て、朝の食事をしなさい。
エス様に顔向けができない。他の弟子たちもイエス様の復活を喜んではいたが、イエス様とどう向き合ってよいのか戸惑っていた。
エス様と共に食事をすることの時の流れの中で、彼らの気持ちも少しづつ落ち着き癒されていったのではないだろうか。
主は、私たちをやみくもに働かせる方ではない。私たちには休息が必要であることを知っている。平凡な日常もまた必要であることを知っている。
主の働き人が燃え尽きて、疲れ切ってしまったのならば、しばしありふれた日常に戻り、しずかにイエス様と過ごす時間も大切である。

15節:彼らが食事を済ませたとき
 共に食事をしてくださるイエス様にはペテロの過ちを咎め責める言葉は何もない。
責めるのではなく、イエス様は私を愛するかと呼びかけてくる。イエス様からのアガペーの愛で愛するかの問いかけに、ペテロはとてもアガペーという完全な愛で愛せると言うことはできなかった。
エス様はどれだけ人が失敗したとしても、咎めたりしない。どれだけ、神を否定したとしても咎めたりしない。神は人が罪人であること、決して正しく歩むことのできない存在であることをよくよく承知している。ペテロもやはり例外では無かった。
神は人の原罪を赦すためにもイエス様を罪の生贄として十字架に掲げられた。
1テモテ1章15節「私はその罪人のかしらです。~まずわたしに対してこの上ない寛容を示して下さったからです。」
ペテロは自分の中に不完全な愛でしかイエス様を愛することのできない人の罪深さと限界を今は知っている。イエス様はペテロに3度目にフィレオーの愛で輪足を愛するかと尋ねられた。
エス様は私たちに神のような完全な愛で愛することを求めはしない。不十分な愛、不完全な愛、見返りを求めるような自己愛が混ざるような愛でも良いと言われる。
神の前に自我が砕かれ、罪の深さと肉の弱さを味わい、己の罪深さを悔いるものに復活のキリストは近く交わって下さる。そして、自分を誇ることなく、神ののみを誇るように変えられた魂にこそ、
初めより与えていた賜物と召命を今活かすときが来たと呼びかけて下さるのである。
「すなわち、ある者をない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」第一コリント1章28,29節。

まとめ、
はじめイエス様に呼びかけられてうれしくてうれしくて熱心にイエス様についていったあなたも、
はじめ描いていたイエス様の姿が崩れ去り、激しい誘惑に遭い、自分の意志に反して大きな過ちを犯してしまうことがあるかも知れない。
当初描いていたイエス様に従うことがあまりにも苦しくて、もうあなたに従えないとイエス様を知らないと言ってしまう時があるかもしれない。激しい試練に疲れ果て、引きこもってしまうこともあるかもしれない。
しかし、今日の聖書が教えてくれていることは、
あなたはイエス様をあきらめたとしてもイエス様はあなたをあきらめてはいない。あなたはイエス様に対して不誠実、不忠実であったとしてもイエス様は常にあなたに真実と誠実を尽くしてきた。
あなたの失敗とあなたの失望はあなたの弟子としての歩みの終わりではない。
エス様は、あなたの中にまだ不十分であっても私を愛する愛があればそれで十分だ。
もう一度私についておいで。いっしょに歩もう、共に歩こうと呼びかけて下さる。
エス様が最初に呼びかけた「人とる漁師にしてあげよう」という召命は、これから始まるのである。今まではこの召命に生きるためにペテロという器を整えてきた期間に過ぎない。
ひとは砕かれてこそ、神の通りよき管となることが出来るのだ。自分の誇りを失い、神の恵みにのみより頼む者に変えられてこそ、あなたに供えられた賜物と召命は神の民の間で教会の聖徒たちの間で活かされるものとなるのだ。

 

2024.4.21  湘南コミュニティーチャーチ 礼拝説教

2024.4.27 片瀬山集会