本来罪のないイエス様には苦しみを受ける理由はない。
イエス様が苦しみを受けられたのは、すべて罪あるゆえに私たちが受けなければならない苦しみ、また悪の力によって私たちが受けざる負えない苦しみの身代わりとして受けて下さった.
受難週にイエス様の苦しみを覚える時、その苦しみは私たちが経験する苦しみであることを知る。
自身に降りかかる苦しみはなんのためにあるのか。それは、イエス様に心を向けためである。
人の傲慢さは苦しみを受けなければ神を求めようとしないほど大きい。苦しみを通して、人は神を求め始める。その極限において、自身で苦しみを解決できないことを知る時、神に助けを求める。
そしてイエス様を信じる時、苦しみの奥に神の平安を受ける。
人の姿をとった神であるイエスキリストは確かに十字架の苦しみの過程の中であなたが今体験している苦しみを負われた。
聖書は約束する。あなたの苦しみの奥に必ず平安が生まれる。どんな平安か。それはこの世が与える平安とは異なる確かな平安である。
苦しみはこの神が与える平安に至る道に過ぎない。
神が与える平安を得たならば、病も愛する者の死の意味も知れるようになる。
イエス様ご自身を知る平安にまさる平安は無く、世のどんな苦しみも嘆きも超越するものである。
神はこの平安をあなたに届けたいと苦しみという恵みをあなたに賜った。
2024.3.31 週報