主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。イザヤ56:7

【祈りの家の喜びの祝い】
また、主のもとに集ってきた異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり
安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、
わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き
わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。イザヤ56:7
それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。ルカ22:39
エス様が望んでおられる態度とは、熱心さではなく、祈りです。
と今日のリビングライフの放送で語っていました。
祈りの生活という態度をまた形造ってゆく必要がある私にとって、
先日のイザヤ書や、今日の御言葉はまた祈りの生活へと招かれている気がします。

イザヤ書の御言葉から、祈りの家の喜びというものは、祝福の一つで、それは、祝福を受けてゆくための条件があることが示されています。
主日の礼拝に集められているすべてのキリスト者が祈りの家の喜びの祝いに参列しているかというと
それは、また別であることが分ります。

主のもとに集ってきた異邦人とは、まさに、私たちを示していると思います。
ここに、5つの条件が示されています。
その異邦人が、主に仕えること、
主の名を愛すること、
その僕となること、
また安息日を守ること、
そして最後に私の契約を堅く守ること。
まとめると三つ。
一つは主に仕える生き方を選択すること
二つ目は主を礼拝する生き方を選択すること
三つ目は主の教えに従うこと。
どれも密接につながっていることなので、それぞれを切り離すことは出来ません。
ただ、このような生活態度を整えてゆく者に対して、神様は祈りの家の喜びの祝いへ招くと言われています。

高い山に登ったことはあるでしょうか?
視界が開け、下方に山々を見下ろせる風景は素晴らしいです。
聖なる主の山とはどのようなものでしょうか。
私たちの霊の目が開かれ、視界が一気に開かれ、主の御心を知れる喜びを味わう嬉しさは、
高い山で下界を見下ろす嬉しさに似ているのではないでしょうか。

ここに示された祝福の条件に従ってゆく時に、主は、私たちを聖なるわたしの山へ導くと約束されています。
山の頂には、祈りの家が備えられているのです。
そこでは、祈ることの喜び、霊の目が開かれて、
主ご自身を知る喜び、主の御心を知る喜びという祝福が待っているのです。
すでに多くの主に集められた異邦人がその祝いに連なることを許されていることでしょう。

私もまた、祝いに連なれることが許されるようになりたいと心を新たにさせられました。感謝。