主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

しかし、人の子は三日目によみがえります。マタイ20章19節

【道々で私を思い出しなさい。わたしは必ずよみがえる】
 
さて、イエスは、エルサレムに上ろうとしておられたが、十二弟子だけを呼んで、道々彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。・・・・しかし、人の子は三日目によみがえります」マタイ20章17節~19節
エス様は、エルサレムに向かう途中に十二弟子たちだけを呼び寄せて、これからご自身がどのような歩みをされるかを説き明かされました。道々にそのことを明かされたのです。
私たちは、ここで、いくつかのことを学ぶことができます。
1:弟子として歩む
①イエス様は弟子を愛し、ご自身を明かされる。
 わたしたちがイエス様から『イエス様が十字架につけられ、そして三 日目に死人の中からよみがえる』ということを教えられているなら  ば、イエス様は私たちを弟子であると認めてくださっています。それ は、イエス様は、愛する弟子たちにご自分がどのような方であるかを 語らずにはおれないということ。愛するものには、すべてを伝え、教 ようとされる方であることが分かります。
エス様は弟子たちと共にエルサレムに向かわれる。   
  イエス様はご自分ひとりだけをさすのではなく、『私たちはエルサレムへ向かう』と私たちとイエス様はいつも一緒に行動するのですよと語ってくれて下さっていることが嬉しいことです。また、身が引き締まることであります。
  つまり、弟子というのは、イエス様についてゆくものである。
エルサレムに向かうとはどういうことでしょうか。
  エルサレムでイエス様は十字架につけられました。イエス様は、そのことを栄光を受ける時が来たとおっしゃられました。ユダヤ人にとって、エルサレムは栄光の都であり、救い主は王となってすべてをすべおさめる中心地であります。   今の私たちにとって、エルサレムに向かうということは、神の栄光を目指して歩むということを意味しています。天の都を目指して、歩むクリスチャンの姿です。
    道々に幾たびも十字架と復活を語られるイエス
 イエス様はエルサレムに向かう途中で、道々、イエス様の栄光をお受けになる姿を弟子たちに話しておられたということです。イエス様は、私たちに語りかけて下さる神様です。それも幾度も幾度も、私たちが天のエルサレムに向かって歩む途中に、私たちの生涯というのは、十字架につけられそしてよみがるという生涯を、幾度も幾度も体験していく生涯なのですよ。私と共に、一緒に、栄光に向かって、十字架と復活の道を歩んでいく生涯なのですよと語って下さる神様なのです。
ご自身を『人の子』と言って下さる謙遜な神様であるということです。
    『人の子である』言って下さることに私は平安を覚えました。なにか、ほっとするような優しさを感じます。『わたしは神であるから、あなたたちもついて来なさい!』などとは、決して仰せにならなかった。私たちはエルサレムに向かうと弟子の歩む道も示しつつ、『人の子』はとご自分の歩みをなんの飾り気も無く、そのまま、弟子たちに伝えられた。イエス様の語り方があまりにも簡素で、飾り気も無かったために、弟子たちは、イエス様の語られた栄光の大きさに気がつけなかったのかもしれません。
     私たちもそういう意味では注意深くイエス様のことばに耳を傾ける必要があるかと思います。
2:イエス様は何をなされたのでしょうか
     エス様は誤解され、嫉まれ、人の憎しみを受けられた
     エス様は死刑を宣告された
     エス様はピラトの下で裁判を受け、ローマの兵隊に引き渡されて、あざけられ、むち打たれ、そして十字架にかけられました。
     しかし、イエス様はよみがえられたのです。
エス様のこの十字架と復活の御業を覚えるときに、私たちは、二つの事実を見ます。
第1に、イエス様は私たちの身代わりとなって十字架につけられたという事実であります。そして、すべての人の初穂として、死からよみがえられたという事実であります。
2に、エス様は私たちと共に十字架につけられたということです。
私たちはイエス様と共に十字架につけられ、イエス様と共に復活します。 
第3に、イエス様は最後に死からよみがえります。
と宣言されたことにしっかりと目と置きたいと思います。
エス様は、死に留め置かれるようなお方ではありませんでした。死というサタンの武器に負けてしまうようなお方ではありませんでした。イエス様がご自分の死をもって、死の力を持つ者を打ち滅ぼして下さったのです。イエス様は、死に勝利をおさめられた方です。
死ほど人にとって、絶望をもたらすものはありません。死と生には超えることのできない大きな隔たりがあります。しかし、イエス様は、よみがえることにより、この死の障壁を乗り越えてくださったのです。
ですから、イエス様を信じる者には、常に希望があります。死の恐怖に捕われることがありません。死を恐れて、この世に執着する必要がありません。朽ちるものではなく、朽ちないものに目を留めることができます。
 
私たち、弟子の歩みはイエス様とともに天の栄光を目指して、十字架を体験し、そして復活を体験しながら、天に向かう歩みです。
エス様と共に歩むときに、私たちには、傷つき、あざけられ、鞭打たれ、誤解され、そして、死さえも経験します。
しかし、イエス様は最後に復活をされたように、十字架にいたる道のゴールは復活です。死で終わりません。死に打ち勝ちます。
それが、弟子たちに与えられた、イエス様の道です。
 
ほんとうに、自分の心の中で死を覚悟しました。これは、もはや自分自身を頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者となるためでした。
コリントⅡ1:9
私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。ガラテヤ2:2
 
弟子はエルサレムに向かう信仰生活の中で、道々にイエス様の十字架と復活を体験してゆきます。そして、パウロの言うように、自分自身には頼まず、死者をよみがえらせてくださる神により頼む者へと変えられていきます。それは、外面上のことだけでなく、私自身を活かしている命においても、自分の古い命に頼らず、復活の命に頼るものと変えてくださいます。
 
十字架の苦しみに会うときも、イエス様は復活されたということを忘れずにイエス様と共に十字架の御許にとどまっているならば、つまり、この苦しみがやがて過ぎ去るということを信じているならば、必ず、死の後、三日目にはイエス様と共によみがえりを体験します。その時、また、信仰生活が新しくされ、また賛美に満ち溢れて、あらたな気持ちをもって主と共にエルサレムに向かう歩みが始まることでしょう。感謝なことです。
2011.4集会メッセージ要旨