【キリスト者に与えられる力】
・律法では為しえなかったことが、恵みによって為すことができるという主の恵み
最近は、殺された被害者の気持ちを聞かれることがよくあります。
極刑にしてほしいと、テレビの中で答えられる。目には目をという律法が日本の中にも生きている。マスコミが取り上げるのは、視聴者の気持ちを引くことができるという思いもあることだろう。事件を知る私たちは、被害者の気持ちに同情もする。
極刑にしてほしいと、テレビの中で答えられる。目には目をという律法が日本の中にも生きている。マスコミが取り上げるのは、視聴者の気持ちを引くことができるという思いもあることだろう。事件を知る私たちは、被害者の気持ちに同情もする。
迫害するもののために祈る、常識的な判断や人の気持ちからは現れてこない。この人は罰を受けて当然だ!と誰もが同意するようなときに、イエス様は、しかし・・・と弟子たちに語りかけてくる。
イエス様が語りかけて来るときに、自分の感情は否であっても、やはり迫害する者のために祈ろうという
気力が、感情とは別のところから、私たちを支える。
それは、弟子の心の内に住んでおられる主ご自身の恵みの力。
気力が、感情とは別のところから、私たちを支える。
それは、弟子の心の内に住んでおられる主ご自身の恵みの力。