【群集と弟子の違い】
あなたは、わたしに従いなさい。ヨハネ21:22
群集も主の声を聞く、主の癒しを受ける。けれども、自分の持ち場を離れる必要はない。
人生の一時に、主の声を聞き、主を体験すればよい。
心の葛藤をしなくてもゆるされる。
ありがたいお話を聞いていればよい。
人生の一時に、主の声を聞き、主を体験すればよい。
心の葛藤をしなくてもゆるされる。
ありがたいお話を聞いていればよい。
弟子に対して、主は呼びかける。
私について来なさい。
呼びかけられるたびに、弟子は自分の持ち場を揺るがされる。心の中で葛藤を余儀なくされる。
弟子であっても、悩みがあり葛藤がある。何も、迷いなく主についていける人などいない。
主の呼びかけにうろたえ、また、自分の事情が前面に出てしまう。
私について来なさい。
呼びかけられるたびに、弟子は自分の持ち場を揺るがされる。心の中で葛藤を余儀なくされる。
弟子であっても、悩みがあり葛藤がある。何も、迷いなく主についていける人などいない。
主の呼びかけにうろたえ、また、自分の事情が前面に出てしまう。
ただ、主の声に悩むところに、弟子としての希望がある。
ひとりの弟子が言った「私の父を葬ることを許して下さい。」
「死人のことは死人に任せなさい」
なんと冷たく響く主の言葉であろう
「死人のことは死人に任せなさい」
なんと冷たく響く主の言葉であろう
家族への情こそ、主についてゆくときの大きな葛藤となる。
しかし、主についてゆくことは、家族との関係を断ち切ることではない。
主を知らない家族の只中で、まず、あなたが、主についてゆき、
そして、同じように家族と共にいること。
主が愛する者を省みてくださるという信じる心を持って、主に愛する者をお委ねする。
しかし、主についてゆくことは、家族との関係を断ち切ることではない。
主を知らない家族の只中で、まず、あなたが、主についてゆき、
そして、同じように家族と共にいること。
主が愛する者を省みてくださるという信じる心を持って、主に愛する者をお委ねする。
主よ、どちらへ?