【無題】
イエス様が、弟子たちと一緒にガリラヤ湖を渡る話に入った。
向こう岸へ渡ろう!とイエス様に声をかけられたなら、以前なら、「これから、どんな嵐がやってくるかもしれない。けれど、イエス様が伴われているのだから大丈夫なはずだ」と心を鼓舞して待ち構えていただろう。
向こう岸へ渡ろう!とイエス様に声をかけられたなら、以前なら、「これから、どんな嵐がやってくるかもしれない。けれど、イエス様が伴われているのだから大丈夫なはずだ」と心を鼓舞して待ち構えていただろう。
けれど、ついていくといった律法学者にイエス様が語りかけたように、「人の子には枕するところもない」と言われると、身が引いてしまう自分がいる。
それは、イエス様についてゆくと決心し、ついていったときに、大嵐が吹きまくり、ほんとうに実生活で、住む場所も失い、枕するところも失った。家族を省みる余裕もなくなり、死人は死人に任せるほか無かった。その時は、確かに、主についていくなら、イエス様のお言葉どおりなのだなと自分を納得させていたと思う。もちろん、手を置けば、立てなかった人が歩けるようになり、悪霊が追い出されていくような奇跡を目の当たりにもした。
ただ、それには、激しい犠牲が伴った。もう、愛する者を失いたくないと思う。
今は、ほんとうに自分の歩みが、イエス様のついてきなさいという言葉の真意だったのか?と問いかけている。