主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。使徒2:3

【燃え尽きることのない聖霊の炎】
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。使徒1章8節
その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。ルカ3章16節
柴の中の火の炎の中であった。よく見ると、火で燃えていたのに柴は焼け尽きなかった。出エジプト記3章2節
エス様の昇天後、聖霊バプテスマを受けた弟子たちが力を受けて復活の証人となり、全世界への宣教が開始され、教会が起こされていったことは承知の通りです。今まで、弱弱しかった弟子たちも、聖霊バプテスマ以降は、敵に怯むことなく、一人一人が力強く走り続けていったことが使徒の働きには、記録されています。
 
 
火の性質はすべてを焼き尽くすものです。燃えた後には、灰しか残りません。また、火は小さな火もありますが、火そのものからのイメージは、『勢い』であり、激しさを連想します。
 
私は、火の持つこの三つの性質を今までにも経験してきました。
勢いよく、激しく、そして、燃え尽き、灰が残るという伝道活動です。
はじめに聖霊の火を受けたときに、それは、私の肉の性質を燃やすために用いられました。私は激しく勢いよく活動し、そして、自分自身の肉の情熱に燃え尽きました。残ったものは何もなく、ただ実のない灰だけが残されました。私は、燃え尽きてしまい、性根尽き果てました。
実はこれは、神様の恵みであって、聖霊がはじめ火として私に降ったときには、私の肉の性質を全焼のいけにえのようにすべて燃やしつくために働かれました。そのため、今も私は肉の情熱をもって、働きをする力は消えうせています。まったくがんばることのできない性質へと変えられました。 
私は、がんばることのできない体に変えられたので、
毎日、イエス様より復活の命をその日の分として受けなければ、その日の務めをまっとうすることができません。
 
今回、ペンテコステに教えられたことは、聖書に記されている火は、『焼け尽きることのない火』であるということでした。
出エジプト記モーセが出会った神さまの火は、柴を燃やしてはいましたが、柴は決して燃え尽きない不思議な火であったのです。
普通、火は火種があり、その火種をエネルギー源として燃えるのです。ですから、火種のエネルギーが途絶えれば、火は自然に勢いを失い、消えてしまいます。しかし、神様が下さった火は、火としての勢いを保ちながらも、決して燃え尽きなかったのです。なんと不思議なことでしょうか?しかし、このような火をこそ、神様はペンテコステの日に弟子たち一同に注がれたのです。
 
私は、自分には、もう自分の中に燃やすべき情熱も尽き果ててしまっていることを知っています。
ですから、聖霊バプテスマを受けて、再び燃え尽きてしまうことを恐れて、積極的に聖霊バプテスマを求めようとしなくなっていました。
 
しかし、それは私の勘違いであることに気がつきました。
聖霊によってあたえらる火は、燃え尽きることがないのです。
その火種を人の性質に求めはしないということです。
その火種は、神ご自身にあり、神が与えられるからこそ、その火を受けても、今度は、燃え尽きることなく、神さまの勢いと神様の情熱とによって、イエス様に仕え続けることができるという性質の火であるのです。
 
私は、このことを教えられて、今年のペンテコステに新しく、聖霊の火のバプテスマが欲しいと神様に願いました。
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。という性質の火です。
私という枯れた骨であっても、私が燃えるのでなく、聖霊の火ご自身によって、私を燃やし、情熱を与えて下さる。
私が、燃え尽きてしまうという心配も不安もいらない。
私は、この火が欲しいと主に願います。
そうすれば、私は燃え尽きることなく使徒たちと同じように神さまの一方的な恵みによって、
主イエス様に仕え続けることができることでしょう。感謝です。