主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

自分のわざを終えて休んだ         ヘブル人への手紙4章10節

神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、
自分のわざを終えて休んだはずです。ヘブル人への手紙4章10節
ここ最近、この御言葉のことをずーっと黙想し、考えています。
なぜ、この御言葉が与えられるかといえば、自分がきっといつのまにか、自分のわざに走りはじめていたからに違いないと思います。
たしかに、自分の心に何か焦りがあり、自分の働きはこれでいいのだろうかとやはり、焦りであり、また心騒がし、心落ち着かない状態が、一年近く続いていたのではないかと思います。
いつごろからだろうかと思うと、結婚して新しい生活を始めたころから少しずつ自分のわざに走りはじめていたのではないかと思います。
主はそれで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、はじめの愛に帰りなさいと語りかけておられます。
 
『愛は高ぶらない』とⅠコリント13章にあります。
高ぶるという言葉を考えると、これは、心が高く、振るえるということを指すのではないかと思います。
自分の心が高い周波数で共振してしまっていて、心の振るえが止まらなくなってしまっている状態のことではないかと思うのです。
愛は高ぶらないのですから、
高ぶっている心が自分の中にあるならば、自分はイエス様の愛から離れている状態なんだということに気がつけます。
 
主は『あなたがたは心を騒がしてはならない。神を信じ、また私を信じなさい。わたしの父の家には住まいがたくさんある』ヨハネ14章1節でおっしゃいました。
自分の住まいがない、自分の居場所がない、居場所が分からない、これからどこにいけばよいのか分からないと、
自分の立つところがふと分からなくなってしまうと、私たちは心を騒がしてしまうのでしょう。しかし、イエス様は心を騒がしてはならない。私はあなたがたのために場所を備えに行くと言われました。
復活され天にイエス様が戻られているのですから、すでに私たちには確かに住まい、居場所がありますから心を騒がさず、安心したいと思います。
 
信じた私たちは安息にはいるのです。ヘブル人への手紙4章3節
さて、神様の御業を見るときに、創世記のはじめに、神様はすべてのみわざを終えて七日目に休まれたと言われました。神様のわざに何か未完成なところは残っているのでしょうか?神様は何か不完全なままに休みにはいられるようなことはあるのでしょうか?いえ、神様はすべてのみわざを終えられたのです。すべてを完成されたのです。キリストが地上にこられ、人の姿をとり、十字架にかかり、救いの御業を成就されることまで、そして、教会が起こされ、やがてイエス様が再び来られ、さばきが行われ、新天新地が造られることまで、すべての御業を完成されて、休まれたのです。
ここになにか、人の業が加わる余地はあるのでしょうか。人はただ、神様が完成された創造の御業の中で憩うのみです。人は神様の創造のわざにそって用いられるのであり、人が何か新しい創造をするのでは決してありません。
人が自分で何かしようと考えて、神様の計画が進展するということは決してないのです。
 
安息がどこにあるのでしょうか?安息はイエス様の中にあります。安息は、働きの中にはありません。働きの結果の中にもありません。ただ、イエス様ご自身に憩う中に安息があります。
創世記で言えば、再びエデンの園に入ることができたとき、人は安息を得ることができます。
安息に入るために私たちは何か働かなければならないでしょうか?いいえ、人の働きは必要ありません。
安息に入るために、私たちは何か努力しなければならないでしょうか?
いいえ、努力によって入ることはできません。
では、どのようにして安息に入ることができるのでしょうか?
それは、自分の業を終え、すなわち、自分の努力を放棄し、自分をあきらめ、ただイエス様に信頼すれば良いのです。
安息は、人が造りだすものではなく、すでに神さまが用意されている安息に入るのです。