主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

主の道に歩む

 
序)振り返ってみますと、この小さな群れの交わりの中にもさまざまなライフイベントがあったことを覚えます。
天に召された方もいれば、新しいいのちの誕生もありました。また、二組の新しい家庭が誕生し、また新しく教会の仲間に加えられた方もいらっしゃいました。一人ひとりの歩みはみな違いましたけれども、主がかしらとなり、一つの群れを守り導いてくださいました。 まず、我らの主、我らの神である、イエス様にまず感謝し、賛美を捧げ、イエス様の御前にひれ伏しましょう。
 
本)
起)今年の教会の御言葉は、『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です』でした。
思えば、ともし火というのは、小さな光です。真昼であれば、太陽が輝き、ともし火は必要ありません。
ともし火が必要なのは、夜であり、闇路を照らすために、ともしびというわずかな光が、そして、唯一の光となるわけです。ともし火が照らす範囲は限られています。足元とほんの一足、先まで照らすに過ぎません。一歩踏み出せば、その先の一歩がまた照らされるのです。
主の御言葉がともしびであるということは、私たちの人生のゴールまで、あらかじめ照らす光としてではなく、一歩一歩づつ、足元を照らして導く光であることを知ります。しかし、闇路においては、その光は、まさに私の道を照らすものであったのです。
承)
『主は、ご自分の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らせた』詩編103:7とあります。
イスラエルは紅海が開かれるという大きな神の御業を見ましたが、彼らはすぐに神の偉大な御業を忘れ、不平と不満に陥りました。彼らは、主のマナを見ても、岩から水があふれるのを見ても、不平不満は収まらず、主に対する不信仰により、とうとう荒野で息絶えてしまいました。しかし、モーセは、彼らの不平不満、不従順にも関わらず、指導者として歩み続けることができました。
この両者の決定的な違いはなにかというと、それは、主は、モーセには、ご自分の道を知らせ、イスラエルはその御業を知らせたということです。
モーセは、どこに行こうとしているのかを知っていました。また主がどのような御方であるかを知っていました。続く詩編には、『主は憐れみ深く、情け深い。怒るにおそく、恵み豊かである。主は絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪に従ってわたしたちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって、私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。』詩編103:8~11
とあります。モーセは主の心を理解していました。ですから、その道中がいかに険しくとも、道を進み続けることに専念することができました。
 
転)今年の歩みの中に、私たちは、主の小道を見出すことはできたでしょうか?
私の歩む道はここにあると、霊において知る者は幸いです。

主の小道を見出した者は、状況は嵐の中にあろうとも、
魂の内側に平安を感じています。
肉においては、辛く、悲しくとも、その内側に主の御声を聞きます。
そこに、主の御言葉があなたを導き、あなたの一歩を導かれていることを霊において知っているのです。
主の業だけを追い求める者は、業が過ぎ去れば、また迷う者となってしまいます。
主の道に歩むということが大切なのであって、主の業ではありません。
『主よ、あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください』詩編25:4
 
あらためて、
主の道とはどこにあるのでしょうか?主の目的は、どこにあるのでしょうか?
主の道とは、主ご自身が道であり、そして、主の私たちに対する目的(御心)は、
それは、私たち、一人ひとりがキリストの似姿に変えられていくことです。
道を歩む過程の中で、私たちが変えられていくことこそ、主の望んでおられることです。
 
では業ではなく、道を選ぶには、どうすればいいのでしょうか?
それは、主ご自身を求める、主ご自身を私の道として慕い求める心を持つことです。
なぜなら、主ご自身が、道だからです。
主ご自身を求めるとき、主は、あなただけが通る必要のある道を示されます。
それは、他の人には、まねのできないあなただけが通ることできる小さな道です。
小さな道ですが、それは、主につながる道なのです。
この小道を見つけられる者は幸いです。
 
イスラエルの民は、ただモーセの命令を守っていさえすれば、約束の地、カナンに入ることができたはずです。
また、モーセの導きに信頼していれば、彼らは道を誤ることはなかったはずです。
しかし、彼らはモーセの命令を守ることができず、荒野で滅びてしまいました。
モーセは、律法を象徴し、律法は行いによる救いを象徴します。
人の行いによっては、誰一人救われない、誰一人約束の地、カナンにはいることができないことが明らかにされるために、イスラエルの民、そして、律法を示すモーセも約束の地、カナンにはいることはできませんでした。
 
結)私たちは、主の道を見出すことにもう苦労することはありません。私たちは、いちいち、今日は正しい行いができただろうかと、主の戒めを守れただろうかと、自分を裁く必要はありません。

私たちは、道そのものであるイエス様がおられます。
エス様は、私たちの道であり、私たちを天のカナンへと導かれる御方です。
イスラエルの民は、モーセの言うことを守っていれば、カナンにはいれたように、
私たちは、ただイエス様を信頼していれば、天のカナンにはいることができます。
私たちは、主イエスキリストへの信頼によって、天のカナンにはいることができるのです。
エス様に信頼を寄せるとき、イエス様は私たちの道となってくださいます。
エス様は、私たちの牧者となって、私たちを最後まで導いて下さるのです。
詩編23編『
エゼキエル34章11~16節。『まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を探し出し、これの世話をする。牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗闇の日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。』
 
まとめ) 今年にあった数々のライフイベントの中に、確かに主の導き、主の道があったことを覚えて、主への信頼を新たにしましょう。確かに、この1年間、主イエス様が牧師として、私たちを緑の牧場に伏させ、憩いの水際に伴なわし、死の陰の谷を歩むことがあっても、確かに主は道を示されていたことを覚えましょう。
主の業を慕い求めるのではなく、主ご自身を慕い求めましょう。なぜなら、主ご自身が私たちの道だからです。
そして、今日まで導いて下さった主は、また今日から始まる新しい一日、そして新しい一年をも導いて下さることに信頼しましょう。
湘南コミュニティーチャーチ