主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

イエスは主なり。

このイエス・キリストはすべての人の主です。                      使徒10章36節
エス様が主であると告白する時、私たちは三つの意味を含めています。
第一に、イエス様は真の神であるという告白です。
第二に、イエス様は、私の人生の主人であるという告白です。
第三に、イエス様は、すべての権威のかしら、主権者、王であるという告白です。
 
第一に、イエス様が主であると告白するとき、裏を返せば、イエス様以外の何者も、神ではない。イエス様以外の何者、何物をも神とすることはできない。ということを伝えています。
靖国神社伊勢神宮、などあらゆる宗教にまつられているものは神ではないと告白しているのです。
エス様を主とすると告白するものは、イエス様以外を神として、頼もうとするすべての人の営みに対して、否と言っているのです。
拝金主義の世の中、経済最優先の世の中の価値観に対して、否を突き付けているのです。
ですから、イエス様を主とすることについては、私たちは、この世との葛藤があり、時には戦いもあります。
 
第二に、イエス様は私の主ですと告白することは、イエス様を罪からの解放者、としてだけでなく、私の人生の主人として、この方にだけ私はついていきますいきますという、私の人生の主人が誰であるかといことを告白しているのです。
エス様を罪の赦し主として、心の中に迎えていても、イエス様を主人として心の中心に御迎えしていないことはありえることです。
いつまでたっても、自己中心的な信仰生活であって、イエス様に仕えていただくばかりで、イエス様に仕えることを喜びとする信仰生活に至らないのです。わたしのしたいことではなく、主のなさりたいことはなにか、主の願うところはなにかと、しもべの心を持って、主に御仕えすることが大切なのです。
 
第三に、イエス様が主であると告白することは、私個人だけでなく、教会、私の家族、夫婦、職場、仕事、勉強、など私にかかわるすべての生活の営みの中に、イエス様が主権者、支配者として、いて下さっていることを認めているということです。教会のかしらはイエス様、家庭のかしらもイエス様、職場のかしらもイエス様です。
私の健康も、財産も、土地も家もすべてイエス様がかしらです。すべては、イエス様がお決めになります。
 
自分の罪の赦し、魂の救いについては、イエス様の御前におのれの無力さを認め、イエス様を主として受け入れたとしても、私の生活については、いまだに自分の欲望のままに、自分の肉の力によって、もんだいの解決をはかろうとしているならば、その人はイエス様をまだ私の主権者としては、お迎えしていないということになります。
 
エス様こそまことの神であることを認め、イエス様を人生の主とお迎えし、イエス様にすべてを委ねて生きることです。
 
 
では、私たちはどのようにしたら、イエス様を主と告白する者へと変えられていけるのでしょうか?
参考として、三つの姿勢をお勧めしたいと思います。
一つ目は、イエス様の行動をじっと見つめ続けること。
二つ目は、イエス様に最後までついていくと心に決めること。
こと。(自分のペースでゆっくりでよいから、何度つまずいても転んでも、よいから、あきらめないで、イエス様についていく)
三つ目は、イエス様に生活の営みのすべてを委ねて生きること。イエス様にすべてをお任せすること。です。
 
 
2013.11.24 SCC メッセ―ジ要旨。