このイエス・キリストはすべての人の主です。 使徒10章36節
イエス様が主であると告白する時、私たちは三つの意味を含めています。
第一に、イエス様は真の神であるという告白です。
第二に、イエス様は、私の人生の主人であるという告白です。
第三に、イエス様は、すべての権威のかしら、主権者、王であるという告白です。
拝金主義の世の中、経済最優先の世の中の価値観に対して、否を突き付けているのです。
ですから、イエス様を主とすることについては、私たちは、この世との葛藤があり、時には戦いもあります。
第二に、イエス様は私の主ですと告白することは、イエス様を罪からの解放者、としてだけでなく、私の人生の主人として、この方にだけ私はついていきますいきますという、私の人生の主人が誰であるかといことを告白しているのです。
いつまでたっても、自己中心的な信仰生活であって、イエス様に仕えていただくばかりで、イエス様に仕えることを喜びとする信仰生活に至らないのです。わたしのしたいことではなく、主のなさりたいことはなにか、主の願うところはなにかと、しもべの心を持って、主に御仕えすることが大切なのです。
第三に、イエス様が主であると告白することは、私個人だけでなく、教会、私の家族、夫婦、職場、仕事、勉強、など私にかかわるすべての生活の営みの中に、イエス様が主権者、支配者として、いて下さっていることを認めているということです。教会のかしらはイエス様、家庭のかしらもイエス様、職場のかしらもイエス様です。
自分の罪の赦し、魂の救いについては、イエス様の御前におのれの無力さを認め、イエス様を主として受け入れたとしても、私の生活については、いまだに自分の欲望のままに、自分の肉の力によって、もんだいの解決をはかろうとしているならば、その人はイエス様をまだ私の主権者としては、お迎えしていないということになります。
では、私たちはどのようにしたら、イエス様を主と告白する者へと変えられていけるのでしょうか?
参考として、三つの姿勢をお勧めしたいと思います。
一つ目は、イエス様の行動をじっと見つめ続けること。
二つ目は、イエス様に最後までついていくと心に決めること。
こと。(自分のペースでゆっくりでよいから、何度つまずいても転んでも、よいから、あきらめないで、イエス様についていく)
2013.11.24 SCC メッセ―ジ要旨。