主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

私は今こんなに大きな字で、自分のこの手であなたがたに書いています。ガラテヤ6章11節

あまりプログに投稿しなくなったわけ。

もう2016年も3月になってしまいました。皆さま、新年あけましておめでとうございます。今年も主にあって、よろしくお願いします。
1月になって、急に引っ越しが決まり、あわただしく、今日まで突き進んでしまった感じです。

プログ投稿が一昨年より、ぐっと少なくなったのは、引っ越しのせいではなく、
今から数えれば、2013年の長後でのクリスマスのの家庭集会の時に、一人の兄弟が日々のでぼーしょんの方法についての話になり、自分は、ノートに教えられたことを書いているとぎっしり書かれたノートを見せてくれました。その話を聞きながら、ふと自分はそれまで、でぼーしょんノートのつもりで、プログを初めていたけど、だんだんと内容が一般向けになっていたり、やはり公開されていることと、公開したいという気持ちもいじまじり、なんとなく、筆が進まなくなっていました。また、忙しい時にはCGNTVのQT放送を聞いて済ますようなこともありました。それはそれで、いろいろな牧師の霊性にふれることもでき、益となりますが、
それで、原点に立ち返って、自分の手でしっかりと教えられたことをノートに書いていこうと思い、2014年からは、ノートに書くことに戻ってみました。
聖書と紙と鉛筆、そして祈りだけで主に向かうということ。
しばらくの間は、インタ^ネット放送を通して、聖書のみ言葉を聴くことに慣れてしまっていたために、
静かに聖書だけに耳を傾けることに不慣れを感じることもありました。
でも、やはり、自分の手で書く、(パソコンに向かってではなく、)、ということは大きく益することがあります。漢字も思い出しますし。
人から、聖書の話を聴くのと、主より直接インスピレーションによって聴くのとは、また益するところが違います。私は、時に応じて両方必要だと思います。
でぼーしょんノートには、その日に与えられた聖句も、自筆でノートに写します。要するに、毎日、
写経ならぬ、写聖書をするのですから、恵まれます。

プログを初めて、おそらく10年以上になってしまったのだと思いますが、QTに関して、そろそろ
プログと、ノートの使い分けを上手にしていくようにしたいと思っています。