主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

そして、人の子は三日目に復活する。マルコ10章34節

2016.5.28 片瀬山集会
人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。                               彼らは、人の子を死刑に定め、そして、異邦人に引き渡します。       マルコ福音書10章32節から34節

無学なペテロたちに知恵を与えるイエス様。

今日の聖書の箇所は私たちに何を伝えてくださるのでしょうか。
1:自らメシアであることを証されるイエス様。
エス様は、これまでも幾度かエルサレムに上りましたが、今回の告白は、ご自身が旧約聖書のに預言されたメシヤであることを自ら成就させるために、上られる最後のエルサレムへの旅でした。
2:イエス様は、父なる神様の声、命令に聞き従うという信仰の従順の道を選ばれました。
アブラハムは、息子イサクを焼け尽くす捧げ物として神様に捧げるように命じられた時、神様の声に聴き従うという一点に心を集中して、愛する一人息子を連れてモリヤの地に向かいました。これから自身の身に起こる事態を知りもせずに、従順についてくる息子の姿を見て、父アブラハムの心は張り裂けるばかりに痛まなかったことは無かったと思います。しかし、アブラハムは、父なる神様の御声に聞き従う道を選ばれました。
 イエス様も、父なる神様の命令がいかにご自身にとって、重大な苦しみであるか、善く知っておられましたが、主ご自身も父なる神様に示された十字架の道を選ばれたのです。
3:忘れてはならない大切なことは、苦難ののちに、十字架の死ののちに主は必ず復活されることを弟子たちに伝えたということです。復活するというイエス様のみ言葉を聴き逃してはなりません。
復活が約束されているからこそ、主は十字架に向かう勇気を持つことができたのであり、弟子たちもこれからの自らの弟子としての歩みにおいて、主の復活の命に自分たちもあずかることが出来るという保証があるゆえに、それぞれが、自分の十字架を負って、主に従っていくことができたのでした。
4:ただ、このとき、弟子たちは、イエス様がご自身がエルサレムでどのように扱われるか、主の話を聴いても、まったく想像も理解もできていなかったことが、35節以降を読めばわかります。

さて、私たちは、今日の主のメッセージから何を学ぶことができるのでしょうか。
主の十字架の意味が分からず、逃げ出してしまったペテロたちを愚かであったと責めるのでしょうか。それとも、彼らの失敗を教訓として、自分たちは主の十字架の意味がよくわかっていると自負すべきでしょうか。そうではありません。
もともとペテロたちは、無学な漁師であって、旧約聖書の預言を事細かに知る由もありません。知らなくて当たり前でした。だから、イエス様が預言の通りであったことを知らなくても何ら責められるとことはありませんでした。そういう私たちも、旧約聖書の預言がどこに書かれているかなど知っているわけではありません。

大事なことは、主の十字架の復活の預言のすぐ後にも、頓珍漢なお願いをする彼らを主は見捨てずに、愛し続けてくださっていたということ。
そして、こんな彼らも、ペンテコステ以降、聖霊の力によって、新しく造り変えられて、信仰のぶれることのない復活の証人とされたということに目を留めたいと思います。

無学で無知な彼らでしたが、イエス様のついていった彼らを主は見捨てられないばかりか、いつのまにか主の十字架と復活の意味を教えられ、良き証人に変えてくださったイエス様に目をとめ、主の恵み深さ、あわれみの深さをほめたたえたいと思います。
2016.5.28 片瀬山集会