主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。へブル2:17

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるために、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためです。主は、ご自身は試みを受けて苦しめられたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。                           へブル人への手紙2章17,18節
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのための祝うしるしです。ルカ2章12節

キリストが人の子としてお生まれになったことを今年も祝いました。救い主がお生まれになった。救い主がおいでになるということを待ち望んでいた民にとって、それは願いが実現した日、待ちに待っていた日として喜び祝うことでしょう。
今日は、キリストが人という肉体を持ってこの地上に来て下さったことのうれしさについて一緒に学びたいと思います。
へブル2章17節に、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければならなかったとあります。
それは、人が肉体をもっている故に生じる弱さを主もともに経験する必要があったということです。
イザヤ53章4、5節に
『まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめされたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために、砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。』
とあります。

キリストが人という肉体を持たれたのは、私たちの弱さをともに経験するためと言いましたが、
肉体の弱さがあるからこそ、キリストは人に触れることができ、
また私たち兄弟もキリストに触れることができるようになりました。
言い換えれば、肉体の弱さこそ、人とキリストが互いに触れ合うことのできる接点となるのです。

イザヤ53章4,5節からもう少しその意味を紐解いていきたいと思います。
エス様は十字架に向かう中で、人々の蔑みを受け、侮辱され、こぶしで叩かれ、
鞭うたれ、さらし者にされ、傷だらけになり、寒さに震え、孤独を味わい、絶望を経験されました。
人々は、最初、ナザレのイエス様がこのような扱いをされたのは、神に打たれたのだと考えました。
人々は、イエス様の受難は自分とは関係がなく、まったくの他人事として上から眺めていたのです。

しかし、ある日、ある時、イエス様が受けた受難にあるような災難が眺めていた人自身に降りかかる時に、
彼は、なぜ、自分は、このような目に合わなくてはならないのだろうかと自身を振り返ります。
これは、自分の罪のせいか、神のばちが当たったのだろうかと。

人は、肉体の弱さを持つ故に、傷つき、悲しみ、飢え、絶望し、さげすまれるような体験に遭遇します。
はじめ、そのような体験をイエス様の受難と関係つけることはありませんが、
しだいに、自分の身の辛さを思うとき、
このような辛さをいったい誰が理解してくれるだろうかと、
誰も私の辛さを分かってくれないと嘆くうちに、
2000年も前に十字架につけられたナザレ人イエス様が自身とまったく同じ体験をしてくださっていることに気が付くのです。
そのように、イエス様が私の辛さを共有して下さっていると気づける人は幸いだと思います。
やがて、イエス様の受難は私の弱さを担うためであったということに気が付き、さらに、私には、罪があるけれども、イエス様は何の罪もなかったにも関わらず、私の辛さを共有するために、受難を受けてくださっているのだと気づけるのです。
そのように気が付けた時、イエス様の上に私の痛みはおかれ、代わりに私の上には、平安が与えられ、いやしが与えられるのです。

クリスマスにおける喜びというのは、世の人々が何か、パーティーを開いて、シャンパンを片手に、クラッカーを飛ばすような、心をウキウキさせるような喜び方とは違うのではないかと思います。
人が他人に知れずに、悩む暗闇をそっと抱き寄せ、引き寄せ、身代わりに背負って下さる神様の深い愛に、
心の深く、感謝をささげていく、そんな喜び方ではないかと思います。