主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

人は新しく生まれなければ神の国をみることはできません。ヨハネ3章3節

ヨハネ3章の前半からメッセージの準備をしているが、なかなかまとまらない。あまりにも、当たり前のように読みすぎて、語るにしても、同じことの繰り返しになってしまいそうな、躊躇がある。
でも、このことは、信仰生活がもう何十年にもなり、イエス様をはじめて信じることにたいしての、感動がうすうれているからかもしれない。
エス様を信じて、見えてくる世界は、肉の世界とは全く違うことを、私は信じた後に体全体で味わった。やはりその始まりは、イエス様を信じることであり、イエス様がニコデモに言われた通り、新しく生まれなければならないのであった。イエス様を信じて歩む世界、そして、永遠の命を得るためには、信じるという信仰の世界に入らなければ始まらない。このことは、いくら言われても、結局のところ、肉の中にいる時には、理解しようにも理解できない。そもそも、教会で口酸っぱく語られる信じるとはいかなることかが、まったくわからない。
信じたいと思っても、信じるということが何なのか、霞をつかむかのように、見当がつかない。
この世の国から、神の国に渡るためには、信仰が必要。でも、その信仰が何なのかがつかめない。
ここに、クリスチャンになるまえの、葛藤がある。信じたくても、信じることができないことが最大の悩みであり、
どうやったら他のクリスチャンのように、信じることができるのか。その方法を知りたいというのが、まじめな求道者の心ではないか。しかし、求道者が信じることそのものが分からないと言っても、だからといって、神の国を見て、神の国に入る方法は、語り継がなければならない。
それが、今回ニコデモの物語を黙想しながら、得たメッセージかもしれない。

クリスチャンになるとは、神の命、すなわち、永遠の命を心の中にいただくことである。
神様の目標は、私たちの肉体の中にあって、死んでいた人の霊をよみがえらせることにある。
人の内にある死んだ霊は、神の霊、永遠の命に触れることでよみがえる。
永遠の命が一度心の中に注がれると、人は生きた者となる。

まじめな求道者が投げかけるどうしたらイエス様を信じたくなるのかという不思議な問いに対して、何と答えればいいのか。
ニコデモの行いにヒントがあるかもしれない。すでに名誉もあり、地位もあり、ユダヤ教の指導者であることに不満があるわけでもない。彼は、盲人のバルテマイが激しくイエス様をもとめたような熱望があったわけでもない、ヤイロのように、娘の死という深い悲しみに遭遇したわけでもない。彼の心は、まだ、暗闇にあった、ただ自分が暗闇にいることさえの自覚もはっきりしていない。ただ、イエス様のことを聞き、そして見て、そこに何か、今までの自分にはない、光をうっすらと感じていた。いったいこの光は何であろうか、どこから照らされるているのだろうかと気になり始めたばかりなのである。
しかし、そこでかれは過ぎ去るのではなく、イエス様にちかずくというはじめの一歩を選択した。彼がイエス様になげかけた質問は的を外れ、イエス様から受けた答えもその意味が分からなかったが、ニコデモははじめの一歩を踏み出し、この自分にイエス様が声を掛けてくれたこと、声を聴いたことに喜びを感じた。そして、ニコデモはイエス様の言われる神の国に入ることを自分自身の新しい選択肢として選び始め、イエス様の後を追っていくことにした。はじめは、こっそりと。イエス様の後ろ姿を追い続けるうちに、彼の中に光が増し加わり、ついにイエス様を信じるようにと導かれていった。

エス様を自分自身の罪から救い主、滅びからの救い主、神のさばきからの救い主、イエス様、私を救ってくださいと叫び求めたくなるような機会を、イエス様は必ず、その人に合わせて用意して下さる。その時を待ち望みながら、今は、イエス様の後姿を追い求め続けるのが良い。