主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

ピラトはイエスに尋ねた。あなたは、ユダヤ人の王ですか。マルコ15章2節

ピラトについて
ピラトはティベリウス皇帝が、反ユダヤ的政策を施行した時期にユダヤの地方総督に任命された。西暦26年から36年までこの職にあたり、反逆に対して情け容赦なき態度を取った。ルカ131
その後、ピラトは自ら起こしたユダヤ人流血事件の失策により、失脚し、左遷することになった。
 
ピラトとイエス様との出会い。
ピラトは、世俗の人であり、真理や永遠の命など目に見えない神の国にたいして全く関心が無かった。ユダヤ教、宗教家たちにも無関心であった。彼の関心は、ユダヤ人達が暴動を起こさないように監視し、ユダヤの地を平定することにあった。
全く、神の国に関心を持たないピラトであったが、福音書にある登場人物の中でイエス様と一対一で対話する機会を得た希な人物である。弟子達を除いて、イエス様に一対一で向かい会えた人は多くない。ニコデモ、サマリヤの女くらいであろうか。ザアカイのようにイエス様と食事をしながらイエス様のお話を聞いた者はいる。しかし、まったく一対一で直接質問できる距離で向かい合った数少ない人物であった。
エス様に罪が見いだせないと公言したピラト。
彼は、イエス様に対して関心は無かったが、彼の政治的な直感で、この男は、ローマに反逆するような罪は何もしていないということがすぐに分かった。ヨハネ18381946
彼は、イエス様に罪は無いということまで直感し、イエス様を釈放しようとまで務めた。彼にとっては、イエス様を信じるチャンスが目の前にあったが、彼はイエス様が誰であるか理解することができなかった。彼は、イエス様の前にひざまづくことは無かった。
エス様は、彼の心も思いはかって、『だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い』と彼の置かれた立場を弁護したとも思える発言をされている。
 
ピラトの2度目の出会い。
ピラトは、しばらくして政治的に失脚して左遷されることになる。どこかの地方でローマの役人の一人として働いたであろうか。
彼は、総督という地位を追われ、公職を奪われ、失意にあったかもしれない。
彼なりに、自分の身も、少しでも、ローマの意向、上の意向に沿わなければ、総督といえども、命令一つで、身分を奪われる、命さえも奪われかねない、軽い命であることを感じたかもしれない。いつも、上を気にし、自分の地位、身分を守ることに精一杯の人生であったことに気がついたかもしれない。
そんな中、彼は、もう一度ナザレのイエスの名を聞くことになる。
彼が、地方に退いた頃には、キリスト教は、エルサレムから始まり、エルサレム教会への迫害から弟子達がユダヤ、サマリヤ地方にまで散らばり、弟子達は、各地でまた福音を伝えていた。ピラトは、ほかの群衆と共に福音を聞いたが、ほかの誰よりもナザレのイエスのことを知っていた。自分の命令でイエスを十字架にかけるよう引き渡した張本人。自分が殺してしまったはずのナザレのイエスが、よみがえった、今も生きている、この方がまことのメシアであったという福音の叫びを耳にした。
 
ピラトは、無関心のまま福音の前を以前のようにとおり過ぎたであろうか。
神様の不思議な摂理によって、イエス様の時代にユダヤの総督とされ、イエス様を十字架につける立場に置かれたピラト、ピラトさえも、この歴史の中心的な出来事の真ん中に置かれたことを予期することもできなかった。神様はなぜ、ピラトにイエス様との出会いを与えたのであろうか。
ピラトは、弟子達による福音の叫びを再び聞くことになる。
神様の計らいは、この時のためにあったのではないか。
 
立身出世で精一杯であったサラリーマンも若いときにイエス様に出会ったことがあったかもしれない、無関心にとおり過ぎたが、今、立場も身分もなくなり一人の人としてもう一度イエス様の福音を聞く時が来るときがあるとしたら、その時、あなたは、イエス様の前に跪きますか。
2019.1.26,27 、片瀬山集会、茅ヶ崎集会