主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。イザヤ書53章5節

イザヤ書53章苦難のしもべ

レジュメ

1節 イエス様は神が待ち望み、救い主を求める敬虔なユダヤ人が待ち望んでいた救い主であった。
2節 切り株からでる新芽のように、地中深い水源に根を伸ばす、砂漠の地の植物の根のように、
2節後半から3節
1. 見とれる姿がない
2. 輝きがない
3. 慕うような見栄えもない
4. さげすまれ
5. のけ者にされ
6. 悲しみの人
7. 病を知っていた
8. 人が顔をそむけるほど
9. 私たち(救い主を待ち望んだ民も)は彼を尊ばなかった。
4節  神の意図:しもべの苦しみは私たちの苦しみを担う
     人の思い。彼は罰せられた
5節  神の意図。彼は人のそむきの罪と人の咎のために十字架につけられた。
5節後半 しもべが苦しみを負ったことによる人への祝福。
1. 彼への懲らしめ・・私たちに平安をもたらす
2. 彼の打ち傷・・私たちは癒された
6節  人の状態・・皆がさまよい、自分勝手な道に行く。
6節後半  父なる神の計画 私たちのすべての咎を彼に負わせた

7節  その姿はまるで屠り場にひかれていく子羊のよう。くちを開かない。黙従
8節  人々のしいたげと裁きにより、十字架によって処刑された
8節後半 十字架の意味。彼は人のそむきの罪のために打たれ、処刑された。
1. 9節 十字架の情景 犯罪の一人としてゴルゴダの丘で処刑された。
2. アリマタヤのヨセフの墓に収められた。
10節  神のみこころ。彼を砕き、痛めること。
10節後半、なぜ砕かれることが必要であったか。(罪過のためのいけにえ)
1. 彼によって祝福が望む。末永く子孫を見ることができる。
2. 主の御心は彼によって成し遂げられる
11節  激しい苦しみを受けた十字架の贖いの結果彼が受ける報い・・多くの人を義とする
12節  多くの人が与えられる
13節  復活され天におられる救い主。

1

はじめに。
イザヤ書53章にはイエスキリストの苦難のしもべとしての生涯が描写されています。主に十字架につけられるためにエルサレムに入った最後の一週間の姿が描写されています。
キリスト教信仰の中核は、イエス様の十字架にある。
それは、苦難のしもべの姿
十字架に見るのはみじめさの極み
ヒーローになれなかった神。
自分を最後まで救わなかった神。の姿。

イザヤ書53章はイエス様が十字架の道を歩まれたその苦難の姿が描かれています。
エス様ご自身が、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目の後によみがえらなければならない。」弟子たちに教えました。
エス様は十字架につけられ息を引き取られる直前に「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と父なる神様に叫ばれました。

要点
1.苦しみを受けられたイエス
2.イエス様の苦しみは私たちの苦しみを負われた。
3.イエス様の苦しみの中に己の苦しみを見るとき救われる。信仰。
4.キリスト教の救いのゴールは十字架の死ではなく、死からの復活にあります。

1.苦しみを受けられたイエス

人は誰でも基本的には幸せになるために働き、生きていると思います。
経済的に、健康的に、家族や友人との良い人間関係のために、また自身の願いや夢を実現したいがために生きています。
人が自分の思い通りの人生を生きられているときには、自分はなぜ生きているのだろうかと生きる意味を問わないで済むかもしれません。
私たちはどんな時に生きる意味を問いたくなるのでしょうか。
それは、人が苦しみに遭遇した時です。
それは私たちが背負いたくない人生を意図に反して背負わされてしまった時です。
生きているがゆえに、受けざる負えない数々の苦しみが押し寄せて来るときほど、
私はなんのために生きているのだろうか。辛くて死にたいと思う。
生きている間に答えが見つかればいいが、見つからないままに肉体の死を迎えてしまう厳しい現実に直面する時がある。自分だけが例外ではいられない。
人はなぜ苦しまなければならなのか、苦しみがどこから来るのか。苦しみからの解放はあるのか。と苦しみの中にある人は誰かに問いかけます。
人は誰でも、究極において名も知らない神にその答えを求め、叫ぶ。
「神よ、なぜですか?」
人の普遍的な「なぜ、人には苦しみがあるのですか?」という疑問に応じた聖書の答えは
「あなたが呼び求めている神は人の姿を取り、すべての人の苦しみを経験しながら自分を最後まで救わず、十字架の上で死を迎えた」という。なぜ、2000年前のイエスキリストの十字架の死が「なぜ、私の苦しまなければならないのか?」の答えなのですか?と再び問うかもしれません。
人に苦しみがあるのは、人には罪があるからです。すべての苦しみの根本は罪にあります。

2
聖書に描かれているイエス様の姿を私たちの受ける苦しみと共に、一緒に見てゆきましょう。
1. 彼には見とれるような姿が無かった。

エス様には人が見とれるような姿はありませんでした。
肉体的な容姿で人からさげすまれている人はいませんか。交通事故に遭い、突然手足を失ってしまった人はいませんか。重い皮膚病にかかり、人目をはばかり苦しい思いをしている人はいませんか。
2. 彼には輝きもなかった。

捕縛されたイエス様は少しも輝いていませんでした。屠り場に引かれていく子羊のように何も声を出さず、黙していました。
学校の成績がいつもびりで学校で一度も褒められたことが無く、周囲から注目されることも無く、劣等感の塊である人はいませんか。
3. 彼はさげすまれていた。

エス様はなんてみじめでおろかな奴なんだろう、犬みたいな奴だとさげすまれたのです。学校や職場で理由もなくいじめられて、差別され、陰口、悪口、仲間外れ、皆から辱めを受けている人はいませんか。
4. 悲しみの人であった。

エス様は、悲しみを経験されました。誤解される悲しみ、裏切られる悲しみ、憎まれる悲しみ、見捨てられる悲しみ、数々の悲しみを体験されました。
今、悲しみの中にいる人はいませんか。お父さん、お母さんに優しくされたことがない悲しみ。いつも家にだれもいない悲しみ。ご飯をおなか一杯食べたことがない悲しみ。戦争で家族が殺された悲しみ。迫害され、死の恐怖にさらされている悲しみ。ありませんか。
5. 病を知っていた。

エス様は自ら弱り果てると共に、人の病を知っていました。
病気で苦しんでいる人、不治の病で思い描いていた人生をあきらめなければならない苦しみの中にいる人はいませんか。
エス様はこのような人の苦しみ、悲しみ、孤独、飢え、渇き、病を経験しながら生きられました。
わたしたちが、「神様、あなたはどうして私に苦しみを与えられたのですか」と問うとき、
神はイエス様の姿であなたの苦しみを経験してくださっているという答えを用意して下さったのです。

エス様は苦しみを負いながら、その苦しみが取り去られることなく、十字架で死なれました。
十字架の死だけを見ればなんてみじめな生涯であったことでしょう。イエス様の姿を見るとき、人は顔をそむけます。私はこんな人生を送りたくない。どこかで、奇跡が起こって、生きている間に苦しみが瞬時に取り除かれたらどんなに良いことでしょうか。しかし、イエス様にも奇跡は起きず、十字架の上で息を引き取られたのでした。

2.イエス様の苦しみは私たちを救う。

 イエス様が苦しんで死んだだけで終わるなら、キリスト教に救いはありません。いったいどこに救いがあるのでしょうか。
4節、5節にその答えがあります。
「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みを担った。
しかし、彼は私たちのそむきの罪のために、刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。」
聖書の言って意味は、イエス様が苦しんだのは私たちの苦しみを負うためであった。苦しみを負うて下さったがゆえに、私たちは苦しみから解放されて、癒され、平安が与えられるというのです。

3.どのようにしてイエス様は私の苦しみを負えるのか。

エス様の苦しみの姿の中に自分の苦しみを重ねることです。それを信仰といいます。
人は、災いを神のさばきだと思います。4節、当時の人々もローマ兵に鞭うたれ、十字架につけられたイエス様を見て、彼は神に罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと思いました。
しかし、そうでは無かったのです。
エス様は良い方で神にそむくことなど一度もありません。常に神に喜ばれ、神に愛され、神様の御心に生きた真の人でした。ですから、イエス様が神に罰せらっれるはずがありません。では、なぜ、
エス様は苦しみを受けられたのか、それは、私たち人の罪の苦しみを代わりに受けるためであった。
私たちは数々の不条理の中で苦しんで叫んでいるときに、イエス様の苦しみの姿に目を向けるため。

4.キリスト教の救いのゴールは十字架の死ではなく、死からの復活にあります。

 

聖書は、イエス様の十字架の死で終わりではなく、死んで三日目によみがえったと記しています。
  
  イエス様は人の罪の病を身に負われ十字架で死なれました。そして人の罪をすべて黄泉に葬りさられました。葬りさった後、新しい命に満たされて罪とは関係のない新しい復活の体でよみがえりました。
エス様を信じる者は、たとえ不自由な体、不自由な境遇にあったとしても、心には平安があたえられ、喜びが与えられ、天国の希望が与えられ新しく生きることができます。やがて、私たちにも復活の体が与えられ、飢えも渇きも苦しみも悲しみもない神の国に生きるものとなります。

2024.3.10 湘南コミュニティーチャーチ礼拝