苦難のしもべ
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。しかし、彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめを受けて、われわれに平安を与え、その打たれた打ち傷によって、われわれはいやされたのだ。」イザヤ53:4,5
イエス様は、私たちの罪を負うという目的のために、人の姿をとってこの世に来て下さったまことの神様です。
前半、若木のようにすくすくと育ったしもべが、ある時を境に苦難を負い始めます。イザヤは、初めは他人事のように、上から目線で、因果応報の視線で、苦難のしもべを描きます。
ところが、ある瞬間から、三つのことを発見して驚きます。
一つ目は、僕には、自ら苦難を負わなければならない罪が全くないということ。
二つ目は、僕の苦難は見ている我々のためであったこと。
三つ目は、彼が我々の苦難を負ったゆえに、平安といやしが私たちに臨むということです。
私たちも苦難のしもべであるイエス様の姿を、はじめ上から目線で解釈しようとします。そして、無視しようとします。
なぜなら、私たちがもっとも遠ざけておきたい忌むべき姿が僕の上にあるからです。
しかし、そんなイエス様の姿に気がつくのはどういう時かというと、自分自身の上に僕が体験した苦難が理由もなく生じた時です。その時初めて、イエス様の苦難の上に自分の姿を重ね合わせることができます。
イエス様の十字架の上に己を重ね合わせることが出来た時、つまり、主は、私の苦難を全く身代りとして負って下さったことを見ることが出来た時(信じることができた時)、私たちの魂は救いへと導かれ、魂の平安を得るのです。