十字架にあるのはみじめさの極み。
ヒーローになれなかった神。
自分を最後まで救わなかった神。
人が人であるのは皆が自分の生きている意味を問うことができるところにあると思います。
物事が順調に進んでいる時は、あまり生きる意味を問わないでも済むかもしれません。
しかし、
病を負う時、
そんなに悪いことをしていないのに、いじめられる時、
さげすまれる時、
迫害を受ける時、
身近な人の死を経験するとき、
苦しみから逃れられない時、
お腹が空いて死にそうなとき、
生きているがゆえに受けざるおえない数々の苦しみが
押し寄せてくるときほど、
私はなんのために生きているのだろうか、
生きていていいのだろうかと問いたくなると思います、
辛くて死にたいと思う。
生きている間に何か答えが見つかればいいが、
答えが見つからないままに肉体の死を迎えてしまう厳しい現実に
私たちは直面することがあります。自分だけが例外ではいられない。
人はなぜ苦しまなくてはいけないのか。
苦しみはどこから来るのか、
苦しみからの解放はあるのかと苦しみの中にある人は誰かに問いかける。
人は、名も知らない神にその答えを求め、叫ぶ。
キリスト教が人の普遍的な疑問に応じた答えは、
あなたが呼び求めた神は人の姿を取り、すべての人の苦しみを経験しながら自分を最後まで救わず、十字架の上で死を迎えたという。
イザヤ書53章には、イエスキリストの苦難の生涯が描写されています。
彼には、人が見とれるような姿は無かった。
肉体的な容姿で人々からさげすまれている人はいませんか。交通事故に遭い、足を失ってしまった人はいませんか。脳梗塞にかかり、手足が不自由になってしまった人はいませんか。
アトピーで皮膚がぼろぼろになり苦しんでいる人はいませんか。
彼には、輝きもなかった。
成績がいつもびりで学校で一度も褒められたことが無く、落ち込んでいる人はいませんか。パッとせず、周囲の注目を浴びることもなく、劣等感の固まりの人はいませんか、
他の人よりも優れた所がなく、何をやってもうまくいかないと落胆している人はいませんか。
彼はさげすまれていた。
学校や職場で、理由もなくいじめられて、陰口、悪口、仲間外れにされ、恥ずかしい思いをさせられ、
みじめさの中で苦しみ、死にたいと思っている人はいませんか。
彼は病を知っていた。
病気があって、苦しんでいる人はいませんか。他の友達と同じように元気に遊んだり、走り回ったりできずに、病室で外を眺めているしかなくて、寂しい思いをしている人はいませんか。
癌や、不治の病で、描いていた人生をあきらめなくてはならなくなった人はいませんか。
彼は悲しみの人だった。
悲しみはありませんか。お父さん、お母さんを亡くしてしまった。
愛する子を失ってしまった人はいませんか。
お父さん、お母さんに優しくされたことがない。
御飯をお腹いっぱい食べたことがない。
戦争で家族が殺された。恐ろしい思いをした人はいませんか。
今、独りぼっちで悲しんでいる人はいませんか。
イエス様は、このような様々な人の苦しみや悲しみ孤独、迫害、飢えと渇き、病を経験しながら生きられた方でした。
あなたが、神様はあなたはどうして私に苦しみを与えられたのですか問う時、
その神様はイエス様の姿であなたの苦しみを経験して下さるという答えを用意して下さいました。
イエス様は苦しみを負いながら、その苦しみが取り去られることなく、十字架で死なれました。
なんてみじめな生涯であったことでしょう。こんな人生は送りたくないと思うことでしょう。どこかで奇跡が起こって、生きている間に苦しみが取り除かれたらどんなに良いことでしょうか。
しかし、イエス様にも奇跡は起きず、十字架の上で息を引き取られたのでした。
ただ、ここで話が終わってしまっては、キリスト教に救いはありません。いったいどこに救いがあるのでしょうか。
『しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために、刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちは癒された。』イザヤ53章5節
ここに書かれている内容の意味は、
イエス様が苦しんだのは私たちの苦しみを負うためだったことと、
苦しみを負うって下さったがゆえに、私たちは苦しみから解放されて癒され、平安が与えらるというです。
ではどのようにして苦しみを負って下さるのでしょうか?
ここにキリスト教ならではの救いの方法があります。それは、信じるという方法です。
イエス様が十字架にかかり苦しみ死なれたのは、私のためであったと信じる時にそのとおりになるという不思議な方法です。
信じるとは、イエス様の苦しまれたのは、私の苦しみを負うためだったのかを気が付き、納得することだと思います。今まで、イエス様の十字架の苦難と私が今受けている苦難には何の関係もないと思っていたのに、
イエス様の十字架の苦難と今受けている私の苦難が心の中で結びついたということです。
ではいつ、苦しみから解放されるのでしょうか。
一つは、信じたその時から。信じたその時から、今まで苦しみ、悲しみ、不条理と思えた中にあっても、平安と喜びが与えられます。
二つには、最終的には死んだ後に。
キリスト教はイエス様の十字架の死で終わりではなく、イエス様は死んで三日目によみがえります。キリスト教の救いのゴールは十字架の死ではなく、死からの復活にあります。ですから、死は終わりではありません。
イエス様が私の苦しみを負って死んでくださったと信じることのできる人には、
自分の苦しみはイエス様の体の上に置かれ、自分は楽になります。
そして、
イエス様が復活されたので、あなたもイエス様の復活の力を受けて新しく生きることが出来るようになります。
新しく生き直すことができたらどんなにいいだろうと思いませんか。
やがて、だれでも肉体の死を迎えます。
けれども、イエス様を信じる者は、復活の命と復活の体をいただいて神様の御国で永遠に生きるようになります。
神の御国では、
朽ちることの無い体が与えられます。
皆が輝きます。
皆が尊ばれます。
病は消え去ります。
悲しみも消え去ります。
苦しみからも解き放たれます。
神の御国に孤独はありません。
神様は、聖書の次の言葉であなたを支えています。
『泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。
息子たちは敵の国から帰ってくる。あなたの未来には希望がある。』
エレミヤ書31章16-17節
2023 .3.25 片瀬山 受難節メッセージ