主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

地の果てに至るまで、わたしの証人となる。

宣教の働きと目的
あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、ユダヤとサマリヤの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。使徒の働き1章8節

聖霊が臨まれるとき、私たちは聖書に記されているイエス様こそ救い主であることを悟り、イエス様を自分の罪からの救い主として受け入れ、同時に聖霊が心の中に住まわれ神の子供としての新しい人生が始まります。


聖霊が臨むまでは、私たちはどれほど聖書を読んでいても聖書を研究していたとしても、イエス様は自分の個人的な救い主とはなりません。ただ、歴史上の人物であり、良い宗教者であり、私たちに良い教えを伝えてくれる方でしかありません。しかし、聖霊が臨む時、私たちの知識や理性や悟りによらずして、神の知恵によってナザレ人イエスこそ、私の罪を赦して下さる唯一の御方であることを霊において知るのです。


そしてイエス様を救い主として受け入れた者はイエス様がおっしゃったように、心の内側からあふれるばかりの命の水が湧き上がり、この世では得ることのできない喜びや平安に満たされるのです。


エス様を救い主として受け入れた者たちの集まりが教会です。


エス様を救い主と受け入れることを「イエス様を信じる」と、「救われる」といいます。イエス様を信じる者はみな救われるのです。


エス様を信じて救われたものは、心の中に命の感覚や喜び、平安があり、この喜びを周囲の人々に伝えたくなります。


聖霊によってイエス様を信じるようになり、聖霊によって私たちはイエス様の復活の証人となります。イエス様の復活の証人というのは、イエス様は今も生きて働かれ、イエス様がいつも私と共にいることを体験している者はみな復活の証人とさせられています。


 


ただ、イエス様を証することは、宣教の働きであって、目的ではありません。


宣教の目的は、神様と人との関係が回復され、そして、お互いに愛し合える共同体を作り上げていくことです。


宣教の働きにより、人々は悔い改め、イエス様を信じることにより、神の子供となり、一つの御体の加えられて、イエス様が言われたとおり、「わたしがあなたがたを愛したように、そのようにあなたがたも互いに愛し合いなさい」という互いに愛し合うという関係性を広めてゆくことにあります。


神様を愛し、自分を愛し、家族を愛し、隣人を愛するという関係性を回復していくことを神様は願っていらっしゃいます。


エス様の十字架は、まず、人と神との和解であり、十字架を通して罪人と神様は和解をすることができます。すなわち、神様を愛し、神様に愛されている関係性が回復されます。そののちに、神に愛されているキリスト者同志が愛し合い、その愛をまた、まだ神に愛されていることを知らずにいる周囲に人々にも分かちあっていくことが出来るようになっていくのです。



ですから、愛し合うという関係性を構築していくことを目的としていかなければ、どんな働きも実を結びません。


証とは、1:イエス様の十字架と復活の事実を伝えること 2:聖書を説き明かし、イエス様が救い主であることを伝えること 3:互いに愛し合うキリストの共同体を形成すること 4:キリストの共同体として、また個人として世の人々に仕えていくこと これらのことは、皆イエス様ご自身が歩まれなされたことにつながります。


 


最初に戻りますが、神様の御計画、すなわち、罪人の救い、福音の宣教、教会の形成、働きなどのすべては、聖霊によります。ですから、私たちは、今も聖霊を豊かに祈り求めるのです。聖霊によらなければ、何一つ神様の御業は進みません。


ペンテコステは、聖霊によって教会が始まったことを記念する時です。それは、私たちが自分の力によらず、すべて上からの神の霊、約束の聖霊によることを確認する時でもあります。


聖霊はイエス様の霊でもありますので、聖霊が臨む時に私たちの生活の中にイエス様の歩みが現実となってきます。イエス様の憐れみの御業が私たちの生活の中にも現われてくるようになります。


聖霊は知恵と啓示の霊です。御言葉が分かるようになってきます。聖霊は祈りの霊ですから、祈りれるようになってきます。聖霊はとりなしの霊ですから、周囲の人々の悲しみや苦しみ、痛みに共感し、とりなすことができるようになります。聖霊は慰めの霊です。私たちの心を慰め、励まし、支えて下さいます。-