イエスキリストの名によって歩くとはどういうことか.
3:1-3:男は生まれつき足が萎えていた。赤子の時は親に抱かれたが、親がいなくなってからは養ってくれる者はなく、周囲の憐れみによって、人の出入りの多い、神殿の門に置いてもらっていた。そこで、施しを求め、施しによって生きていた。これは、当時の社会情勢においては、認められていた社会福祉の方法であった。憐れみ、施しによって弱者が生きることができるように。当然、その場には彼だけでなく、ほかにも同じような立場の者が大勢いたであろう。
〈ペテロたちに与えられた弟子達の権威〉
l この物語の中心は、単に癒やしの物語ではない。ペンテコステ以降、弟子達は
イエス様が生きておられる時、弟子達に宣教に伴う権威が与えられていた。
マタイ10:1 ガリラヤでは、彼らはイエス様に後ろから支えられながら、村々を巡り、福音を伝えていたが、エルサレムでの十字架処刑を前にして、彼らの心は凍り付き、弟子として、歩み出す勇気をすっかり失っていた。しかし、主は復活されて、おびえていた弟子達の前に閉ざされていた扉を通り抜けて、彼らの前に現れて、平安を宣言し、彼らのおびえていた心を解放し、もう再び弟子として世に遣わすことを命じ、そして宣教の力、保障として聖霊を受けるように語られた。
l この物語は、再び弟子達として歩み出したペテロ達の変化を教えている。目の前にイエス様はもういない。しかし、聖霊に満たされたペテロとヨハネたちはもう臆病者ではない。主の弟子であることを自覚し、迫害も覚悟の上で新しく歩み出した弟子の姿である。
l 6節:このペテロの男に対するすすめは、ペテロ自身の立場であり、覚悟であった。
l 金銀はわたしにはない。この世の名誉も地位も財産もない。この世にもはや頼るべきものは何ももっていない。私は今、何に頼って生きているのか、何が私の宝であり、行動の根拠であるのか。
l わたしにあるものをあげよう。 直接あなたが求めている生活の糧、すなわち、金銀は持っていない。渡せない。私たちにそのことを求めるな。私たちにあるもっと必要なそして、あなたに欠けているものをあなたにあげよう。
l ナザレのイエスキリストの名によって歩きなさい。 目に見える者だけにこれまで頼ってきた男にたいして、毎日の糧を得て、生活をつなぐことで精一杯であった、人生の長い目標など考える余裕もないこの男にたいして、ペテロは『ナザレ人イエス。キリストの名によって歩め』と命じた。ペテロは聖霊を受けてから、揺るぎない岩のような信仰者へと変えられていた。この姿が、イエス様がガリラヤ湖で漁師をしていたペテロの中に見出していた弟子としての姿であった。
l ペテロは金銀を与えないだけでなく、手を置いて足なえをいやしたわけでもなく、また、主の御名によって悪霊を追い出した訳でもない。本人に向かって『ナザレ人イエスキリストの名によって歩きなさい』と命じられた。
l ペテロにとって、イエス様が待ち望んでいた救い主であることは確信であり、すべてのユダヤ人にとって今必要なことは、この方の名を呼んで、この曲がった時代から救われることでした。そこで、この男に対しても、同じように勧めました。
l 7節:男は、その言葉に感動し、ペテロが伸ばしてくれた右手を握り、彼は立ち上がる決心をした。初めて聞くイエスの名を信じようと彼が決心したのは、ペテロの短い説教であった。しかし、ペテロはここでこの人を立たせるための大切なキーワードを語っている。それは、『歩きなさい』です。彼の本当の望み、夢は、ほかの人と同じように、一度でいいから歩いてみたいということであった。しかし、それは、彼にとって、夢のまた夢であった。しかし、ペテロは、彼をじっと見つめて、歩くようにと声をかけたのでした。
l これは、イエス様が足なえを直して歩かせた場面とペテロが重複して見えてきます。
l 彼は、立ち上がることによって、足とくるぶしが強くなった。寝ていたままでは、やはりそのままであった。足とくるぶしが強くなってから、立ち上がろうではなく、イエスの御名を信じて、まず、立ち上がることにより、足もくるぶしも強くなっていった。
l そして、歩き出すうちに、ますます、強さが増し、踊りはねるほどになっていった。
l イエスの名に信頼して一歩を踏み出す、そして、さらに信頼して次の一歩を踏み出すとさらに強くなって、次の動作ができるようなる。とうとう、彼は神を讃美し、ペテロたちと一緒にイエス様を証する者へと変わっていった。ハレルヤ!
2019.1.13 茅ヶ崎集会