使徒たちは何を伝えたのか。
それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、
信じる者を救おうと定められたのです。Ⅰコリント1章21節
使徒10章38節から48節
前書き
私は救いを受けたのち、心の中は喜びに満たされ、この喜びをいかにして他の人々に伝えればいいのかと模索するようになりました。結論としては、『イエス様を信じて下さい!』ということになりますが、それだけでは人々はちんぷんかんぷんです。
私がいくら喜んでいても、この喜びをいかにして共有することができるのかが課題でした。
主が示して下さった御言葉は、神はそのみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。1コリ1:21でした。
人びとの関心を買うために、人々の聞きやすい言葉で釣るのではなく、
たとえ愚かに想えても、十字架のことばを伝えることにより人々は救われるのだと、
主はそのように約束されたのだ、ということを教えられました。
では、十字架のことば、宣教のことばとは何でしょうか。
この言葉の中身を知るために、わたしは使徒たちが何を語ったのかを聖書から知ろうと努める必要が出てきました。
ペテロの説教の内容
① イエスはナザレでお育ちになった。
② イエス様には聖霊とちからが注がれていた。
③ このイエスには神がともにおられた。
④ このイエスは良いわざを為し、悪魔に捕らわれているすべての者を癒した。
⑤ このイエスは、エルサレムにおいて、人々に十字架にかけて殺された。
⑥ 神はこのイエスを三日目によみがえらせた。
⑦ このイエスは弟子たちの前に現れた。弟子たちはイエスがよみがえったことの証人である
⑧ このイエス様は、さばき主である
⑨ このイエスについては旧約聖書(預言者)たちにおいてあかしされている
⑩ この方を信じる者はだれでも、罪の赦しが受けられる。
⑪ イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように命じた。
以上が要点である。
要は、イエス様は何をされたのかを語ることである。
ペテロは 『このイエスは』とイエス様が歴史の舞台の上で何をされたかを史実のままに伝えた。このペテロの宣教のことばには、
イエス様のたとえ話の解説だとか、律法学者との論争などの解説は一切ない。
このシンプルな説教により人々は心を打たれ、イエス様を信じるようになった。
人の関心を買うような言葉はひとつもない。
宣教は史実を宣言することであり、
そうかもしれないとかそう言われているとか相手に判断を委ねる言葉ではない。
事実、ペテロ達はイエス様の誕生の頃からイエス様の生涯を知っている生き証人であり、
彼らは自分の目で見てきたことをそのまま確信をもって語ったのである。
信じる者はバプテスマを受けるように勧めたことも忘れてはならない。
信じる者の最初の応答としてバプテスマを受けて自身の信仰を言い表すことはイエス様の命令であり、ないがしろにされてはならない。
ペテロ達は確かにイエス様の生涯を共にしたので、確信をもって語ることが出来た。
では、2000年を経た今の私たちはどうなのか?
これは、聖霊を受けた者は、使徒たちと同様に聖書に記されているイエスが救い主であることの確信を与えられる。
それゆえ、使徒たちと同様に今の時代にあっても確信をもって語ることが出来るのである。
礼拝説教はこれらの宣教の要点をかみ砕いたり、ひとつひとつ丁寧に解きほぐしたり、また深く掘り下げたりする作業であるが、それはすべてこれらの宣教の要点に行きつくための道ほどである。
語る者は、イエス様が何をされたのかを福音書をよく読んで心に刻み付けることである。