主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

神を愛することは、隣人への愛の行いと結びつく マルコ13:28~44

1:マルコ1328節から34

「神を愛することは、隣人への愛の行いと結びつく」

29節、30節 あなたの神である主を愛せよ。
あなたの神とは誰か?まずこの問いに対してどのように答えるかが大切です。私の神は、ナザレのイエスであると告白することができているか。ゾロアスターの神ではなく、エホバの証人の神ではなく、私の神はナザレのイエスであると告白することができているか?
あなたの主人となっている神は誰であるのか?
エス様を愛するならば、イエス様の愛が心の中に流れてくるはずです。それは、兄弟姉妹、隣人への愛へと広がります。しかし、ナザレのイエス以外があなたの神であるならば、それは、偶像の神であり、その心にキリストの愛は流れてきません。それは、破壊であり、嫉妬であり、不品行であり、他者への愛は現れません。
まことの神を愛することは、隣人を愛する愛のもといです。
 
復活されたイエス様はペテロに向かって私を愛するかと訪ねられました。漠然と神を愛するか?と問われたのではなく、目の前にいるこのイエス、私を愛するかと問われました。そして、このイエスを神として、心を尽くして愛するかと尋ねられました。そして、ペテロの告白は、そのまま“私の羊を養いなさい”という愛に結びついていった。
 
238節から44
「宗教的偽善に気をつける」
「小さなことに主の愛を込めて」
「神は人の心を見ておられる」
Ⅰサムエル16:7 「人はうわべを見るが、主は心を見る」
イザヤ5715「心砕かれて、へりくだった人とともに住む」
Ⅱ歴代誌169「主はその御目をもってあまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです」
マラキ316節から18節「主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で記憶の書がしるされた」
 
もとより、神は霊であって、人の心の姿勢を見ておられる方であります。信仰というのも形式ではなく、行為ではなく、その人の神に対する心のあり方である。人への見栄や飾りや人からの誉れではない。
しかし、神への愛はその人の行いに現れてくる。
エス様は宮の中で献金を捧げる人々を見つめていた。金持ちは、わざと見えるように、お大金を献金箱に投げ入れていた。周囲の人々も彼らのことを気にし、どれだけ入れるかと見つめ、お金持ち同士の献金額を陰で競っていたのではいか。一方、貧しいやもめには、人々は全く気にもとめず、何の期待もかけず、やもめが献金箱に近づいていったことさえも気がつかなかったかもしれない。しかし、イエス様は目をとめていた。やもめはそして、大切な生活費を投げ入れた。人々は全く目にとめなかったが、イエス様はやもめの行為の奥にある心の姿勢・動機を見ておられた。
    エス様は人の行いのもとにある動機、神様に対する、を見ておられる
    愛するという行為は、目に見える形の大きさには比例しない。小さなことに主の愛を込める。
参考:Ⅰ歴代誌11:1925
2018.428 片瀬山集会