主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

御覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。ルカ1:31

【ありふれた名】

エスという名は、当時特別な名ではなく、日本で言えば、太郎とか一郎とかのありふれた名であった。

女性がみごもり、男の子を産む。そして、今、流行の名前を付ける。そして、その誕生を喜ぶということは、どの時代にも、どの世界でも人である限り、見ることのできる日常的ななりわいである。
だから、どうして、2千年も前に生まれた一人のイエスという男児だけを聖書では特別扱いするのかと思われる。

エスは貧しく歩まれたという。けれど、今、飢えで死んでしまう子供たちは大勢いる。
そんな子供たちの方が、もっと貧しいではないか?
どうして、イエスだけを特別に貧しさの象徴とするのかと思われる。

エスは十字架についたという。けれど、当時十字架刑で処罰された人は他にも大勢いる。
そんな、ありふれた刑罰であったのに、なぜ、イエスだけを特別視するのかと思われる。

自分たちの子供とどう違うのか?
なぜ、イエスだけを特別視し、イエスは神であるとキリスト教徒は信じるのか?

そこには、神は、自分たちとは違う特別な存在であって欲しいとイメージする人の心がある。
しかし、真の神の姿は違った。
あまりにも、日常的な姿であった。

親戚の赤ちゃんと同じように、裸で生まれ、布に包まれ、無力なままの姿であった。
あまりにも、ありふれているので、気がつかないほど、わたしたちと同じ姿をしていた。

ただ、聖書は、このイエス様こそ、神が人の姿を取った方であり、人の痛み、病、苦しみ、重荷を担い、
人の罪の身代わりとなるために、十字架にかかり、そして、死に、よみがえられた方だと証言する。