私たちの信仰は、
どこから救われたかという過去から見るだけでなく、
将来、どのように救われるかと将来を見ることによって、
信仰の幅が広がると言いましょうか、
現在に耐える力が与えられると言いましょうか、
救いという恵みの豊かさを味わうことができます。
どこから救われたかという過去から見るだけでなく、
将来、どのように救われるかと将来を見ることによって、
信仰の幅が広がると言いましょうか、
現在に耐える力が与えられると言いましょうか、
救いという恵みの豊かさを味わうことができます。
エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民が
救われたことを忘れてはなりませんでした。
しかし、彼らは荒野の40年間で、救われた恵みの尊さを忘れて、ただつぶやく民となってしまいました。
それは、彼らが、エジプトから救われたのは、カナンの地へ出発するためであったこと、
そして、カナンには素晴らしい祝福が待っていることを十分に学んでいなかったからではないでしょうか。
彼らは、救われたことを喜び、記念としていましたが、
それは、まだ救いの始まりであり、
のちに与えられる救いの完成を喜ぶことを知らなかったとも言えるのではないでしょうか?
救われたことを忘れてはなりませんでした。
しかし、彼らは荒野の40年間で、救われた恵みの尊さを忘れて、ただつぶやく民となってしまいました。
それは、彼らが、エジプトから救われたのは、カナンの地へ出発するためであったこと、
そして、カナンには素晴らしい祝福が待っていることを十分に学んでいなかったからではないでしょうか。
彼らは、救われたことを喜び、記念としていましたが、
それは、まだ救いの始まりであり、
のちに与えられる救いの完成を喜ぶことを知らなかったとも言えるのではないでしょうか?
大まかにテサロニケの各章を振り返ってみますと、
を伝えています。
イエス様の再び来られることを待ち望む信仰をこの手紙から学んでいきたいものです。感謝。