主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。マルコ2:10

エス様は人の罪を赦すことのできる唯一の御方です。
エス様の他には人の罪を赦すことのできる神はいません。
今日の御言葉の中で、このイエス様はすでに十字架につかれる前にすでに人の罪を赦すことのできる神であったことに心を向けたいと思います。
エス様は十字架の上で、人の罪の購いを成就されました。
エス様の十字架により、すべての人の罪の問題は解決しました。
 
しかし、イエス様は十字架につく前にすでに人の罪を赦す権威をもっておられたことがわかります。
ですから、イエス様が、全人類に向かって、あなた方の罪を赦すと宣言しさえすれば、人の罪の問題は解決したはずです。
しかし、イエス様はそのような解決の仕方を選ばれませんでした。
エス様は、父なる神様に従順に従われ、律法にしたがわれ、
律法の規定にそって、自分自身を罪のあがないの供え物とされる道を選ばれたのです。
エス様は、ご自身、律法を完成するために来たと宣言されました。
 
律法によれば、人の罪は、罪のない人の血がながされることによって、はじめて赦されるものでした。
では、一体だれが、自分の罪の身代りとして、罪のない人の血を受け取ることができるでしょうか。
人間同士、いくらよそを見ても、だれも自分の罪の身代りとなれる罪のない人はいないことは明らかでしょう。
 
エス様は、罪を赦す権威を持たれる神であったにも関わらず、神としての立場を放棄し、
一人の罪のない完全な人として歩まれ、人として十字架につけられる道を選ばれたということです。
このようなイエス様の姿を思う時に、人にはどんな誇りが残されているでしょうか。人には、全く誇るところなく、へりくだるしかないことを思います。ただただ主のあわれみと主の恵みにより、私たちは救われたのです。
 
罪を赦す権威を持たれているイエス様があえて、人として十字架の道を選ばれたという尊い謙遜の姿を思い、主をあがめます。