主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。ヨハネ12章2節

 
【主の傍らに座するラザロ】
1:ただ何もせずとも、イエス様の食卓の中にいながら、癒しを受ける時間の必要性。
2:教会は、ただ何もせずとも、イエス様の食卓の傍らにいることが許される時間と空間を提供するゆとりが必要。
3:ただ何をせずとも、よみがえりを体験したラザロの存在そのものが、イエス様を証している。
証とは、宣教とともに、よみがえりを体験して、主の傍にいること。
 
12章は、イエス様がエルサレムへ向かう後半につながる章として、マリアがイエス様への埋葬の準備として香油を塗られる物語が有名なために、1節、2節のラザロの存在については、あまり目を留められないのではないかと思います。が、私は、ここにしるされているラザロの姿に大変大きな平安を得て、居ることの大切さを教えられた大切な聖書のみ言葉ですので、短く証を兼ねて皆さまとみ言葉の恵みを分かち合いたいと思います。
 
ホームズという社会心理学者が、人生の中で、ストレスとなりやすいライフイベントを列挙しています。人生の試練のリストといってもいいかもしれません。
ストレスの大きいものから、配偶者の死、離婚、夫婦別居、拘留、親族の死、病気やけが、失恋、入学試験、結婚(50)解雇・失職、家庭内の不和、退職、家族の健康上の大きな変化、過労などを挙げています。
私も、ある時期、このストレスの項目に挙げられているものの上位にあたることが、いくつも一度に覆いかぶさり、まったく疲弊しきってしまった時期があります。心も体も疲れ、傷を負い、心が痛みすぎて、話すこともできないような状態となりました。
心で支えられるエネルギーが少ししかないものですから、少し動くとすぐに疲れてしまい、私は、主イエス様の復活の命をいただきながら、動けるようになるまで、約10年をかけて徐々に癒されてゆきました。
 
ラザロも、大病を患い、そして死にイエス様からもう一度、肉体のようみがえりを与えられましたが、病、そして、死という経験は大変なストレスであったにちがいありません。
44節で、ラザロは墓の中から出てきた時、まだ手と足を布で巻かれたままでした。顔には覆いで包まれていました。
エス様は、このような姿で墓の中から出てきたラザロのために、周囲の人々に、『ほどいてやりなさい』とお命じになりました。ラザロは、よみがえりましたが、まだ自分の力で体に巻かれた布をほどく力はなく、
周囲の人々のケアを必要としていたということかと思います。
 
よみがえり(生き返る)と復活は質がまったく異なります。復活はイエス様が初穂として成されたことであり、これは朽ちることのない体に変えられることです。ここにあるラザロのよみがえりは、朽ちる肉体が再び与えられることです。どちらも、御霊なる神様の御力によりますが、私たちは、ラザロの体に働かれた同じ御霊によって死ぬべき体を生かしていただけるのです。
 
1:ただ何もせずとも、イエス様の食卓の中にいながら、癒しを受ける時間の必要性。
ラザロは、何も語りません。ただ、イエスと共に食事の席についた人々の中にいたとしか記されていません。それで、良かったということです。ラザロにとって必要であったことは、ただ、主の食事の席に座しているということでした。給仕は、マルタがしてくれました。主イエス様へのもてなしもマルヤがしてくれました。ほかのもてなしも他の兄弟たちがしてくれました。ラザロは、何か主賓席のようなところに座っていたのでもないと思います。この夕食は、イエス様をもてなすために開かれた夕食です。彼は、自分自身では、目立つことなく座っていたことでしょう。しかし、大きな試練を通り抜けた直後のラザロにとって必要なことは、主イエス様のために何かをすることではなく、主イエス様の傍らにただ座っていることでした。
私たちも、人生の大きな試練に出会い、主の癒しを受けるためだけに、何もせずに、ただ主の食卓に招かれて座っている時期が必要な時があります。
 
2:教会は、ただ何もせずとも、イエス様の食卓の傍らにいることが許される時間と空間を提供するゆとりが必要。
夕食の席にいたイエス様の弟子やもちろんマリヤもマルタもラザロがどれだけ大きな試練を乗り越えたかをよく知っていましたので、マルタさえも、ラザロに『何かイエス様のためにもてなしなさい』などということはありませんでした。この主を囲む、食卓の中にはラザロをそのままで、ありのままで、憩わせていて良いという雰囲気が漂っていたということです。また、同時に、イエス様がラザロをよみがえられせて下さったことへの感謝と喜びが静かに、溢れていたのでしょう。このように、教会も、傷ついた人々がその傷の癒しのために、そのままでその存在を赦すという雰囲気が大切なのではないかと思います。
3:ラザロは、ただ何をせずとも、よみがえりを体験したラザロの存在そのものが、イエス様を証している。
ラザロは、何も語っていません。しかし、9節にあるように、多くの人がイエスが死者の中からよみがえらされたラザロを見るために、夕食の席にやって来たと記しています。ラザロは何も語りませんでしたが、彼の中には、主イエス様の復活の命を味わった喜びが満ち溢れていました。周囲にもラザロの体験が喜びとなって夕食の席を満たしていました。
様々な試練を通して、主のよみがえりを体験した者たちがただ主の食卓の傍にいる場こそ、教会であり、主イエス様の復活の命の溢れが、周囲への証となることを私たち教えて下さっている気がいたします。

わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。私たちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。        Ⅱコリント1章6節

2016.7.24 茅ヶ崎集会