盲人のバルテマイにさえ、仕えて下さるイエス様
2:彼の願いは『主に憐れんでいただくこと』であった。
35節、36節でヤコブとヨハネが似たようにイエス様にお願いをし、イエス様は同じように彼らにも『何をしてほしいのか』と尋ねられました。しかし、彼らの願いとバルテマイの願いの心には大変大きな違いがありました。
ヤコブやヨハネは、イエス様に己の地位や立場、役職を求め、バルテマイは、己の生死にかかわる憐みを求めました。『憐れんでください』というバルテマイの叫びは、どうかわたしに目を留めてください、見捨てないでください、と救いの手をこんな私にも下さいという謙りからくる叫びでした。
仮にバルテマイという盲人、乞食が飢えや病気で道端で死んだとしても誰一人顧みない、困らない、そんな価値を見出すものもいない、そんな人間であったバルテマイ、彼自身も己のそのような境遇になす術もなく、みじめであった自分をよく知っていたからこそ、彼は、必死でイエス様の憐みを求めました。
イエス様は、バルテマイのそのような心を知り、『行きなさい。あなたの信仰があなたを救った』と救いを宣言され、バルテマイを憐れんでくださいました。
イエス様は、45節『人の子は仕えられるためではなく、仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである』と記されている通り、まさに取るに足りないバルテマイにさえ、仕えて下さったのでした。
主イエス様を、自分の利益のために利用しようとするのではなく、ほんとうに主の御前に謙る心を忘れないことが大切なのではないかと思います。
2016.7.23 片瀬山集会