主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

あなたたちのゆえに命を失うのを非常に恐れ、このことをいたしました。ヨシュア記9章24節

ヨシュア記6章から10章。
異教の神に従う民を滅ぼしつくされるイスラエルの神

だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるでしょう。ローマ人への手紙11章22節


今日は、ヨシュア記の6章から10章までを概観しながら、教えられたことを分かち合いたいと思います。
1:神の義に妥協はない。
2:神の愛は平等である
3:神の愛は寛容である。
4:神の愛は主の十字架に現された。

イスラエルの神、すなわち私たちの父と呼ぶ神様が、ヨシュア記6章から10章にかけて、異教の神を信じる人々を滅ぼし尽くすことをヨシュアに命じました。聖書の神が、他民族を滅ぼし尽したという歴史的事実を読む時に、私たちの理性は反発を覚えるのではないでしょうか。
聖書の神は、無慈悲な神だ。聖書の神は、不公平だ。・・それゆえ、こんな不寛容な厳しすぎる神は信じることができないと考えてしまいやすいのではないでしょうか。

このヨシュア記を読んだ人の反応は、二つに一つしかないと思いわれます。
こんな厳しい、不寛容な神は嫌いだといって、離れてしまうか、
もしくは、では私はどうしたらよいだろうかと自分と神に問いかけていくかである。

神が他民族を滅ぼしたことを受け入れられないという気持ちはどこからくるのでしょうか。
それは、人の罪の性質からくるものではないかと思います。
人は、自分を神の義の前では滅ぼされても致し方がない存在であるとの自覚は罪の中にいる者にとっては困難なことです。今の世においては、すべての人の命が大切にされ、すべての人の人権は大切にされるべきであるという思想は尊いものでしょう。
しかし、この自分も同じように滅ぼされていた仕方がないとの心が与えられて初めて、この私をも滅ぼしてしまう神に対して、素直に命乞いをしたいという願いがおこるのだと思います。

このヨシュア記の10章の間までで、読み飛ばしてはならない物語があります。それは、エリコの町にいた遊女ラハブとギブオンの町の住人である。彼らは、イスラエルの神が、自分たちを滅ぼしてしまうことを聞いたとき、
なんとか救われたいと命乞いをし、そして、彼らは、イスラエルの神を恐れ、イスラエルの神の代表であったヨシュアたちにより頼んだゆえに、彼らの命は、みな保証されました。

聖書にしるされている事実を前にして、わたしも滅ぼされてしまうと恐れをもって、イスラエルの神から離れてしまうのではなく、反って滅ぼされることのないようにと神に近づいていくことを私たちは学んでいかなくてはならないのです。

2:神は不平等なのであろうか?神は、不寛容なのであろうか?
神様は、私たちを滅びから免れさせるために、御子をこの世に送られた。
この御子はすべての時代、すべての民族に平等に与えられている。
神様は、この御子において、すべての人に完全に等しく、平等に救いの機会を与えていらっしゃる。そのような意味で、神様は平等なお方である。また、御子によって救われるために、身分も、過去も、地位もなにも関係がなく、神様は、御子の前ですべての人に寛容なのである。それは、異教徒であった遊女ラハブ、ギブオンの住民にも見られたものある。
救い主がすべての人に開かれていることにおいて、今も、神は愛であり、寛容であり、平等なのである。

2016.7.10 茅ヶ崎集会