主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

試練と共に、それに耐えられるように、逃れる道をも備えていてくださいます。

わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。わたしはあなたがたを分別ある者考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。Ⅰコリント10章14節から16節

10章には、旧約の聖徒たちが偶像礼拝への誘惑、試練に遭遇し、その試練に打ち勝つことが出来ず、滅ぼされてしまった歴史が記してあります。彼らの試練はすべて、新約の時代に生きる教会の民に対する教訓であり、私たちは同じような試練に遭うときに、これを避けるように勧めています。
しかし、私たちはどのようにして、偶像礼拝を避けたらよいのでしょうか。どこに、激しい試練を逃れる道があるのでしょうか。
神様は、耐えられないような試練に遭わせることがないばかりか、試練と同時に逃れる道も用意して下さっていると聖書は記しています。
その逃れる道とは、主ご自身により頼むということです。
主ご自身により頼むための道として、パン裂きの礼拝を備えられていると判断することができます。
礼拝において、パンと葡萄酒をいただくということは、主ご自身を覚えるひと時ですが、
これは、すなわち、パンと杯を通して、主ご自身に立ち返り、主ご自身を礼拝するときであります。
私たちは、日々の生活の中で、世の試練にさらされます。
しかし、主の日ごとにパンと杯にあずかるとき、私たちは、自分が肉の欲に巻き込まれ、罪を犯していたことを素直に認め、主の御前に赦しと罪、汚れからの清めを乞い、同時に主の流された血潮によって、罪すべて洗い清められたことを信じ、そして、良心の咎めをすすがれて、はばかることなく大胆に神の御前に進み出て、ひれ伏して神と神とともにいます主ご自身を礼拝するのです。
このようにして、私たちは、パンと杯をいただくときに、偶像礼拝を避けることが再び可能となるのです。
これこそ、神様が試練に耐えられるように用意して下さった逃れの道です。

わたしは、イエス様の弟子たちに対する思慮深い配慮、知恵を想います。
エス様は、天に昇られて、弟子たちの前を去ってしまったのではなく、
弟子たちが、この世で勝利しながら歩んでいくことができるために、つまり、偶像礼拝に陥って、滅ぼされてしまわないために、主の晩餐、パン裂きという知恵深い道を残しておいてくださったのだなあとあらためて思わされています。
パン裂きにあずかるというのは、人が故人を偲ぶために行う、記念会や、何回忌というものではなく、
過去を偲ぶための儀式ではなく、
今、生きている神の民が、偶像礼拝から免れ、日々主ご自身に立ち返り、主ご自身と共に歩むことができる生きた知恵なのです。
エス様は天に昇られたのちに、助け主として聖霊を送られました。そればかりでなく、また、いつも主と共に生きる知恵としてパン裂きをとおして偶像礼拝を避け、試練に耐え、主ご自身を礼拝する道を残しておいて下さっているのです。
主ご自身が私たちの牧者となって導いて下さる。感謝です。
2017.1.22  茅ヶ崎集会