主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

教会では彼のために熱心な祈りがささげられていた。使徒12章5節

祈りには、主イエス様に一人で向かう一対一の個人的な祈りと、教会の群れ全体として祈る教会の祈りがあります。教会は有機的な共同体であります。礼拝を共にささげる為の共同体、宣教を共に担う共同体、地域に仕える奉仕の共同体、そして、本日お話しする祈りの有機的な共同体です。私たちは、ともに祈るようにも召されていると言えるのではないかと思います。

1節:教会が広がり始め、神の国が拡大しはじめたとき、悪魔は、ヘロデ王を通して、教会への迫害の手を伸ばしてきました。兄弟、ヤコブは剣で殺され、教会の指導者であったペテロも捕らえられました。悪魔は、教会の指導者を捕えていけば、教会の力が弱まるということを知っていたのです。
4節:ペテロは、厳重に監視され、もはや人の手では救い出すことが出来ない状況に置かれました。
5節:教会では彼のために熱心な祈りがささげられていました。

教会の人々は、ペテロを解放するために何をしたのでしょうか?
ヘロデに貢物を捧げて、取り入ろうとしたのではありませんでした。
剣をもって、武力で、牢から解放しようとしたのでもありませんでした。
教会は、神に対する熱心な祈りによって、神様の力に頼って、ペテロが解放されることを願ったのです。
教会の武器は、祈りであります。

もちろん、ペテロも牢に居ながら独りでも熱心に祈っていたことでしょう。しかし、祈りは、ペテロだけのものではありませんでした。牢の外でも、教会の皆がペテロのために熱心に祈っているということをペテロも知っていたのです。

12節:ペテロは奇跡的に牢から解放されると、急いでヨハネの母マリヤの家に向かいました。そこには、大勢の人が集まって祈っていた。のでした。ペテロは、どこで自分のために祈っている人々がいるかを知っていたということです。祈りの家が存在していたということです。祈るときに、私たちは神の奇跡を見ることが出来ます。神様が今も生きて働かれることを知り、信仰が新たにされます。

教会は、共に祈るための共同体です。兄弟姉妹たちが、困難にあるときに、誘惑の罠に陥っているとき、教会全体の祈りが、一人の兄弟姉妹を闇の力から救い出す力となります。
孤独であっても、教会が祈っていることを心に覚えられるならば、私たちは、平安を心に抱くことが出来ます。
ヨハネの母マリアの家のような祈りの家、家庭集会もまた一つの祈りの家として用いられていくならばどんなにすばらしいことでしょうか。

ペテロが牢獄に入れられて、そこから解放されるためには、教会の祈りを必要としました。
今なお、サタンの牢獄に縛られている魂が解放されるためには、教会全体の熱心な祈りが必要なのではないでしょうか。

個人の祈りと、教会の群れとしての祈りの両方を必要とされていることを私たちは覚えたいと思います。

2017.1 茅ヶ崎集会