主イエス・キリスト・       御言葉の黙想

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。詩篇119:130

言の内に命があった。ヨハネ1章4節

1章1節から18節までは、序章として、ヨハネ福音書全体でヨハネが語り継げたいと考えている主題が散りばめられています。ヨハネが語り継げたいと考えていたのは、イエス様とはどのようなお方であるかということを、世に知らしめることでした。

このたび、この箇所を再び読む時、ここに記されているイエス様の姿は、私自身、イエス様を知るようになった時間軸の流れによく沿っているものであると気がつきました。その証をさせていただきます。
1:神の言としてのイエス・キリストエス様は、人の姿を取る前、天地創造の初めから神の言でした。
私のイエス様との出会いは、聖書の言葉としてであったと思います。学生時代に、どこかでいただいたギデオン聖書をむさぼるように読みました。聖書の一つ一つの言葉が心に沁みました。
2:永遠の命としてのイエス・キリスト。イエス様の中に永遠の命があります。聖書の言葉に触れるようになって、私の魂は
満たされると共に、自分の命の枯渇を感じるようになりました。神の言葉はまだ自分の外側にあり、言葉は日ごとの糧でありますが、さらに言葉の源なる永遠の命をいつも自分の中に得たいと無意識の中で願うようになってきました。
私は、まだ聖書に記されているナザレのイエスこそ自分自身の魂の救い主、永遠の命であることを知らずにいました。やがて私は、自分自身が闇の縁に沈み込み、滅びていく様子を幻の中で見た時、沈み込むその瞬間にイエス様が右の手を差し出し、私の右の手をつかみ、滅びの縁より引き上げて下さった霊的な体験をしました。
この瞬間、イエス様が私を個人的に救ってくださったこと、イエス様は生きておられることを同時に知りました。聖書にあるイエス様が私の個人的な救い主であることを知ったとき、私はすぐに洗礼を受けたいと思いました。次の主の日の礼拝のあと、F兄に洗礼を受けたいと伝え、11月23日?に洗礼を受けました。
3:エス様の名を信じること
わたしは、このとき、公にイエス様の名を呼びました。ナザレ人イエス様が私の魂の救い主、滅びの縄目から解き放って下さる方であることを正式に告白しました。
そのあと、腹の底から生ける水の川が溢れ流れ、私の魂は神の喜びに満たされました。
私にとって、イエス様自身を受け入れることが永遠の命であることとと、イエス様の名を呼ぶということはつながっている出来事でした。
その名を信じるとは、ナザレのイエス様という実際の人を自分の救い主として信じること、迎え入れることです。
このことは、聖書の言葉に親しんでいることとは、また次元の違うことです。もっと豊かに、イエス様を知ることになります。イエス様が私たちの現実である霊の世界で生きておられるということを受け入れることです。
私たちは、恵みによって、何かのきっかけを通して、霊の目が開かれてイエス様が実在していることに気が付くことを願います。
4:言は肉となって。人の子としてのイエス様を知ること。霊においてイエス様を知ると、霊的な体験を求めることに偏りがちです。イエス様は人であり、人としてこの地上に生きられたことに気が付くとき、イエス様に対する理解が広がり、信仰生活に落ち着きが出てきます。言が肉となったということは、神の謙遜の現れです。謙り、地に住み誠実に歩むことの大切さs、神の技や働きだけでなく、イエス様の人格、ご性質、を学ぶことの大切さに気が付くようになります。ナザレのイエス様はどのような方であるのかを知ることにより、イエス様への理解がさらに豊かになります。ナザレのイエス様を知ることにより、はじめてクリスチャンとしての徳が養われていくのではないでしょうか。
5:この方が神を示されたのである。エス様をまことの神として知ること。
わたしは長い間、今も疑問に思うときがありますが、どうして教会では、神様、神様と説教するのであろうか、なぜ、神様にのみ祈りを捧げているのだろうか、なぜ神様にのみ礼拝を捧げているのだろうか?と疑問に思います。私にとっての魂の救い主、いのちを救ってくださった方の名前は、イエス様であり、この方を私の主人とし、この方の弟子として生きていくことに決心をしましたので、また、神様はイエス様としてお姿を現して下さったということを教えられたゆえに、イエス様を求め、愛し続けていけば十分であると納得しましたので、私にとって、教会はイエス様を主としてあがめ礼拝を捧げ、イエス様に祈る場でありたいと願っています。


2017.2.12 茅ヶ崎集会